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第五十四幕 目覚めの時、憎悪の炎

布団の上で眠る胡蝶の瞼が、かすかに震えた。


「……っ」


最初に感じたのは、鼻腔をくすぐる薬草の独特の匂い。

次に耳に届いたのは、遠くで聞こえる誰かの話し声と、衣擦れの音。

そして身体に感じるのは、柔らかい絹の布団の感触と、全身を鉛のように重く引きずるような、鈍い痛み。


ゆっくりと、何日も閉ざされていたかのような重い瞼を、持ち上げる。


「……」


視界は、最初はぼんやりと白く霞んでいた。

しかし徐々に、輪郭がはっきりとしてくる。


見慣れない、木目の美しい天井。

障子の向こうから、柔らかな光が差し込んでいる。

壁には見事な山水画の掛け軸。


「ここ……は……?」


掠れた、自分のものではないような声が乾いた喉から、絞り出された。


(俺は一体、何を……?)


最後に見ていたはずの、懐かしい風景と誰かの顔。あの空間が何なのか、あれが誰なのかは分からない。

胡蝶の意識は、ひどく混濁していた。


「ぐっ……」


身体の節々が、鉛を詰め込まれたかのように、重く痛む。


「この痛みは……ここはどこだ?一体、なにが……?」


胡蝶が、不可解な状況に思考を巡らせていた、その時であった。

すっ、と。

部屋の襖が風が撫でるかのように、音もなく静かに開かれた。

そこに立っていたのは一人の若い下女であった。年の頃は胡蝶と、そう変わらないであろうか。

素朴な、しかし清潔な小袖を身に纏い、手には綺麗な水が張られた木製の盆を大切そうに抱えている。


「!」


胡蝶は思わず、息を呑んだ。


「……」


下女は、胡蝶がまだ深い眠りの中にいるものと、信じて疑っていないようであった。

彼女の動きは薄氷の上を歩くかのように慎重で、細心の注意が払われている。


(敵……? いや、違う)


胡蝶は布団の中から、少女の一挙手一投足を見つめていた。

その動きには、一切の敵意も殺気も感じられない。そもそも目の前にいる存在は、どう見ても戦場とは無縁の、か弱き下女にしか見えぬ。


胡蝶が混濁した意識の中で、思考を巡らせていたその時であった。

痛む身体をわずかに身じろぎさせた、その瞬間。

布団の下の畳がかすかに、きしりと音を立てる。


「!」


その些細な音に、下女が雷にでも打たれたかのように、びくりと小さな肩を震わせた。

そして、顔を上げる。

今まで決してこちらを見ようとしなかった小さな瞳が、まっすぐに胡蝶の姿を捉えた。


「──」


布団の上で痛む身体を、なんとか起こそうとしている胡蝶と。

目覚めた胡蝶の姿に驚き、恐怖とも安堵ともつかぬ表情で固まってしまった下女と。

二人の視線が、静まり返った部屋の中で確かに交わった。


長い静寂。

先に沈黙を破ったのは、下女の方であった。


「お目覚めに……なられましたか……?」


敵意の欠片も感じられない声を聞いて、胡蝶は張り詰めていた身体から力を抜いた。

少なくとも、目の前の少女が自分を害そうとしているわけではないらしい。


「あ、あぁ……」


まだ思うように動かぬ喉で、なんとかそう応える。

胡蝶は、改めて辺りを見渡した。

上等な寝間着。手当ての跡が残る自らの身体。そして少女が持ってきたのであろう、綺麗な水が張られた盆。

どうやら彼女は、自分を介抱してくれていたようだ。


(そうか……)


未だ微睡みの中にいる頭で、胡蝶は安堵していた。


(倒れていた俺を、通りかかった心優しい誰かが……村の者であろうか。その者が俺を運んで、こうして手当てを……)


そう考えれば辻褄が合う。ここはどこかの、裕福な庄屋の家なのかもしれない。


胡蝶は、ぼんやりとした頭でそう結論付けようとした。


その時であった。

ぞくりと。

胡蝶の背筋を一つの拭い去れぬ違和感が、駆け抜けた。


──待て。


そもそも、俺はどうして倒れていたのだ?


確か……。


そうだ。


確か、俺は母を──。


その言葉を、心の中で紡いだ瞬間であった。


(──母上!)


忘却の深い霧の向こうから、凄まじい勢いで記憶が奔流となって溢れ出してきた。

胡蝶の瞳が驚愕と絶望に、大きく見開かれる。


思い出した。


上野国へと、ひたすらに逃げていた。だが、過酷な道中で弥助も吉兵衛も、権太も皆、死んでしまった。


そして最後には。


最後には、母上は自らの喉に短刀を突き立てて──。


「あ……」


そうだ。己は母を失ったのだ。

あの血に濡れた月夜の下で。


悲しみと怒りの中で、追いすがる者たちを斬って斬って、斬り続けて……。

最後には、赤鬼のような大男に挑み、そして敗れ──。


「……」


胡蝶の身体が、わなわなと小刻みに震え始めた。

蘇るおびただしい数の死。仲間の、そして母の最期の姿。

それが、胡蝶の身体を震わせる──


その様子を目にした下女は、胡蝶の具合が急に悪化したのだと、思い込んだ。

彼女は慌てて傍に駆け寄る。


「どうなされました!?まだ、お身体の具合が、優れず……!?」


心配を向けてくる下女に、胡蝶は獣のような鋭い視線を向けた。

そして掠れた、絞り出すような声で問う。


「……ここは、どこだ」


その剣幕に、下女は息を呑む。しかし恐怖に震えながらも、彼女は呟くように答えた。


「こ、ここは躑躅ヶ崎館の、一室にございます……」

「……つつじがさき?」


聞き慣れぬ言葉に胡蝶が眉をひそめる。

下女はさらに言葉を続けた。


「は、はい。甲斐国にございます。武田様のお館で……」


──武田。


その二文字が、鋭い刃のように胡蝶の耳を通り、脳へと突き刺さった。


「──武田、だと?」


胡蝶の口から、地の底から響くような低く、憎悪に満ちた声が漏れた。

その名は、胡蝶にとって忘れることのできぬ怨敵の名であった。

諏訪、村上、そして武田。三家の連合軍によって故郷は蹂躙され、源太左衛門も、仲間たちも殺され、そして母までもが命を絶つことになったのだ。


「──おのれ……おのれっ!」


憎悪が腹の底から込み上げてくる。

胡蝶は側にあったはずの自らの刀を探して、虚空を掴んだ。

しかし、そこに握り慣れた刀の感触はなく、弱りきった身体は言うことを聞かずに、布団の上で大きくよろめいた。


「う……っ!」


全身の傷が一度に悲鳴を上げる。胡蝶は苦痛の声を漏らしながら、布団の上に手をついた。


「……!」


鋭く、紛れもない修羅の眼。先ほどまでの、麗しき少年の姿からは、到底想像もつかぬほどの凄まじい豹変ぶりに、下女は今度こそ恐怖に顔をひきつらせた。

目の前の少年が、ただの美しい少年ではなく、数多の戦場を駆け、人の血を吸ってきた恐ろしい「何か」であることを肌で理解したのだ。


下女が持っていた盆を取り落とすのも構わず、喉を引きつらせたような悲鳴を上げる。

真っ青になった顔で、彼女はかろうじて言葉を絞り出した。


「少々、お待ちくださいませ!すぐに、どなたか、お人をお呼びしてまいりますゆえ!」


そう言い残すや否や、彼女は返事を待つこともなく、部屋から転がるようにして逃げ出していく。


「くそっ……」


一人、静まり返った部屋に残された胡蝶は荒い息をつきながらも、態勢を崩さない。

焼けつくような緊張が彼の全身を支配する。

だが憎悪も殺意も、今の弱りきった身体の前では無力であった。


(くそ……身体が言うことを、聞かぬ……)


悔しさに唇を強く噛み締めた。

そして無力感の中で、胡蝶の頭に一つの疑問が浮かび上がってくる。


俺はあの時、確かに赤鬼のような大男に敗れたはず。

──ならばなぜ、殺されなかった?

敵である俺を、なぜわざわざ手当てなどして生かしておく?


(なぜ武田が俺を拾った……?なぜ、殺さなかった……?)


拷問にでもかけて、海野の残党の居場所を吐かせるつもりか?

いや、それにしてはこの部屋も、この扱いも丁重すぎる。

では何のために。一体自分に、どのような利用価値があるというのだ。


胡蝶が思考の海へと深く沈み込んでいた、その時であった。

遠くから複数の足音が慌ただしく、この部屋へと近づいてくるのが聞こえた。

そして複数の足音は、部屋の襖の前で止まった。


「……!」


胡蝶は息を呑み、声のした方へと視線を向ける。

身体はまだ思うように動かない。

だが、瞳には再び敵意と獣のような鋭い警戒の色が宿っていた。


やがて、ゆっくりと襖が、外側から開かれていく。

そこに立っていたのは──。


「ようやく起きたか、童よ」


あの日、あの月夜の下で。

自らの全てを、いとも容易く打ち砕いた赤鬼のような男。

今、彼が纏っているのは戦場での真紅の鎧ではない。上等な、しかし質実剛健な上級武士の装いであった。


だが、胡蝶にはすぐに分かった。

山のような巨躯も、何よりもその身から隠しようもなく放たれる、圧倒的なまでの武人としての覇気も。

目の前にいる男こそが、紛れもなく、あの赤鬼そのものであると。


胡蝶の瞳に、再び燃えるような憎悪の炎が宿った。


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