布団の上で眠る胡蝶の瞼が、かすかに震えた。
「……っ」
最初に感じたのは、鼻腔をくすぐる薬草の独特の匂い。
次に耳に届いたのは、遠くで聞こえる誰かの話し声と、衣擦れの音。
そして身体に感じるのは、柔らかい絹の布団の感触と、全身を鉛のように重く引きずるような、鈍い痛み。
ゆっくりと、何日も閉ざされていたかのような重い瞼を、持ち上げる。
「……」
視界は、最初はぼんやりと白く霞んでいた。
しかし徐々に、輪郭がはっきりとしてくる。
見慣れない、木目の美しい天井。
障子の向こうから、柔らかな光が差し込んでいる。
壁には見事な山水画の掛け軸。
「ここ……は……?」
掠れた、自分のものではないような声が乾いた喉から、絞り出された。
(俺は一体、何を……?)
最後に見ていたはずの、懐かしい風景と誰かの顔。あの空間が何なのか、あれが誰なのかは分からない。
胡蝶の意識は、ひどく混濁していた。
「ぐっ……」
身体の節々が、鉛を詰め込まれたかのように、重く痛む。
「この痛みは……ここはどこだ?一体、なにが……?」
胡蝶が、不可解な状況に思考を巡らせていた、その時であった。
すっ、と。
部屋の襖が風が撫でるかのように、音もなく静かに開かれた。
そこに立っていたのは一人の若い下女であった。年の頃は胡蝶と、そう変わらないであろうか。
素朴な、しかし清潔な小袖を身に纏い、手には綺麗な水が張られた木製の盆を大切そうに抱えている。
「!」
胡蝶は思わず、息を呑んだ。
「……」
下女は、胡蝶がまだ深い眠りの中にいるものと、信じて疑っていないようであった。
彼女の動きは薄氷の上を歩くかのように慎重で、細心の注意が払われている。
(敵……? いや、違う)
胡蝶は布団の中から、少女の一挙手一投足を見つめていた。
その動きには、一切の敵意も殺気も感じられない。そもそも目の前にいる存在は、どう見ても戦場とは無縁の、か弱き下女にしか見えぬ。
胡蝶が混濁した意識の中で、思考を巡らせていたその時であった。
痛む身体をわずかに身じろぎさせた、その瞬間。
布団の下の畳がかすかに、きしりと音を立てる。
「!」
その些細な音に、下女が雷にでも打たれたかのように、びくりと小さな肩を震わせた。
そして、顔を上げる。
今まで決してこちらを見ようとしなかった小さな瞳が、まっすぐに胡蝶の姿を捉えた。
「──」
布団の上で痛む身体を、なんとか起こそうとしている胡蝶と。
目覚めた胡蝶の姿に驚き、恐怖とも安堵ともつかぬ表情で固まってしまった下女と。
二人の視線が、静まり返った部屋の中で確かに交わった。
長い静寂。
先に沈黙を破ったのは、下女の方であった。
「お目覚めに……なられましたか……?」
敵意の欠片も感じられない声を聞いて、胡蝶は張り詰めていた身体から力を抜いた。
少なくとも、目の前の少女が自分を害そうとしているわけではないらしい。
「あ、あぁ……」
まだ思うように動かぬ喉で、なんとかそう応える。
胡蝶は、改めて辺りを見渡した。
上等な寝間着。手当ての跡が残る自らの身体。そして少女が持ってきたのであろう、綺麗な水が張られた盆。
どうやら彼女は、自分を介抱してくれていたようだ。
(そうか……)
未だ微睡みの中にいる頭で、胡蝶は安堵していた。
(倒れていた俺を、通りかかった心優しい誰かが……村の者であろうか。その者が俺を運んで、こうして手当てを……)
そう考えれば辻褄が合う。ここはどこかの、裕福な庄屋の家なのかもしれない。
胡蝶は、ぼんやりとした頭でそう結論付けようとした。
その時であった。
ぞくりと。
胡蝶の背筋を一つの拭い去れぬ違和感が、駆け抜けた。
──待て。
そもそも、俺はどうして倒れていたのだ?
確か……。
そうだ。
確か、俺は母を──。
その言葉を、心の中で紡いだ瞬間であった。
(──母上!)
忘却の深い霧の向こうから、凄まじい勢いで記憶が奔流となって溢れ出してきた。
胡蝶の瞳が驚愕と絶望に、大きく見開かれる。
思い出した。
上野国へと、ひたすらに逃げていた。だが、過酷な道中で弥助も吉兵衛も、権太も皆、死んでしまった。
そして最後には。
最後には、母上は自らの喉に短刀を突き立てて──。
「あ……」
そうだ。己は母を失ったのだ。
あの血に濡れた月夜の下で。
悲しみと怒りの中で、追いすがる者たちを斬って斬って、斬り続けて……。
最後には、赤鬼のような大男に挑み、そして敗れ──。
「……」
胡蝶の身体が、わなわなと小刻みに震え始めた。
蘇るおびただしい数の死。仲間の、そして母の最期の姿。
それが、胡蝶の身体を震わせる──
その様子を目にした下女は、胡蝶の具合が急に悪化したのだと、思い込んだ。
彼女は慌てて傍に駆け寄る。
「どうなされました!?まだ、お身体の具合が、優れず……!?」
心配を向けてくる下女に、胡蝶は獣のような鋭い視線を向けた。
そして掠れた、絞り出すような声で問う。
「……ここは、どこだ」
その剣幕に、下女は息を呑む。しかし恐怖に震えながらも、彼女は呟くように答えた。
「こ、ここは躑躅ヶ崎館の、一室にございます……」
「……つつじがさき?」
聞き慣れぬ言葉に胡蝶が眉をひそめる。
下女はさらに言葉を続けた。
「は、はい。甲斐国にございます。武田様のお館で……」
──武田。
その二文字が、鋭い刃のように胡蝶の耳を通り、脳へと突き刺さった。
「──武田、だと?」
胡蝶の口から、地の底から響くような低く、憎悪に満ちた声が漏れた。
その名は、胡蝶にとって忘れることのできぬ怨敵の名であった。
諏訪、村上、そして武田。三家の連合軍によって故郷は蹂躙され、源太左衛門も、仲間たちも殺され、そして母までもが命を絶つことになったのだ。
「──おのれ……おのれっ!」
憎悪が腹の底から込み上げてくる。
胡蝶は側にあったはずの自らの刀を探して、虚空を掴んだ。
しかし、そこに握り慣れた刀の感触はなく、弱りきった身体は言うことを聞かずに、布団の上で大きくよろめいた。
「う……っ!」
全身の傷が一度に悲鳴を上げる。胡蝶は苦痛の声を漏らしながら、布団の上に手をついた。
「……!」
鋭く、紛れもない修羅の眼。先ほどまでの、麗しき少年の姿からは、到底想像もつかぬほどの凄まじい豹変ぶりに、下女は今度こそ恐怖に顔をひきつらせた。
目の前の少年が、ただの美しい少年ではなく、数多の戦場を駆け、人の血を吸ってきた恐ろしい「何か」であることを肌で理解したのだ。
下女が持っていた盆を取り落とすのも構わず、喉を引きつらせたような悲鳴を上げる。
真っ青になった顔で、彼女はかろうじて言葉を絞り出した。
「少々、お待ちくださいませ!すぐに、どなたか、お人をお呼びしてまいりますゆえ!」
そう言い残すや否や、彼女は返事を待つこともなく、部屋から転がるようにして逃げ出していく。
「くそっ……」
一人、静まり返った部屋に残された胡蝶は荒い息をつきながらも、態勢を崩さない。
焼けつくような緊張が彼の全身を支配する。
だが憎悪も殺意も、今の弱りきった身体の前では無力であった。
(くそ……身体が言うことを、聞かぬ……)
悔しさに唇を強く噛み締めた。
そして無力感の中で、胡蝶の頭に一つの疑問が浮かび上がってくる。
俺はあの時、確かに赤鬼のような大男に敗れたはず。
──ならばなぜ、殺されなかった?
敵である俺を、なぜわざわざ手当てなどして生かしておく?
(なぜ武田が俺を拾った……?なぜ、殺さなかった……?)
拷問にでもかけて、海野の残党の居場所を吐かせるつもりか?
いや、それにしてはこの部屋も、この扱いも丁重すぎる。
では何のために。一体自分に、どのような利用価値があるというのだ。
胡蝶が思考の海へと深く沈み込んでいた、その時であった。
遠くから複数の足音が慌ただしく、この部屋へと近づいてくるのが聞こえた。
そして複数の足音は、部屋の襖の前で止まった。
「……!」
胡蝶は息を呑み、声のした方へと視線を向ける。
身体はまだ思うように動かない。
だが、瞳には再び敵意と獣のような鋭い警戒の色が宿っていた。
やがて、ゆっくりと襖が、外側から開かれていく。
そこに立っていたのは──。
「ようやく起きたか、童よ」
あの日、あの月夜の下で。
自らの全てを、いとも容易く打ち砕いた赤鬼のような男。
今、彼が纏っているのは戦場での真紅の鎧ではない。上等な、しかし質実剛健な上級武士の装いであった。
だが、胡蝶にはすぐに分かった。
山のような巨躯も、何よりもその身から隠しようもなく放たれる、圧倒的なまでの武人としての覇気も。
目の前にいる男こそが、紛れもなく、あの赤鬼そのものであると。
胡蝶の瞳に、再び燃えるような憎悪の炎が宿った。