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第五十五幕 憎悪の果て、武士の心

襖の向こうに立っていたのは、紛れもなく自分を打ち負かした赤鬼であった。

山のような巨躯と、圧倒的なまでの威圧感を前に、胡蝶の瞳に燃えるような憎悪の炎が宿る。


「貴様……は……」


乾ききった喉から絞り出すように、声が漏れた。


──今すぐにも男に飛びかかり、喉笛を食い破ってやりたい。

そんな原始的で暴力的な衝動が、胡蝶の全身を激しく突き動かす。しかし、先の戦いで負った深い傷と極度の疲労により、身体は重く言うことを聞かない。

無力な現状が、胡蝶の行き場のない憎悪を更に激しく掻き立てていった。


「……」


燃えるような憎悪の視線を、男は真正面から受け止めた。

やがて、彼は重い口を開く。


「我が名は飯富兵部少輔虎昌。武田に仕える者だ」


男は自らをそう名乗った。

飯富虎昌──。

胡蝶は周辺諸国の武将の名に、特別詳しいわけではない。

だが、「飯富」という名には聞き覚えがあった。甲斐武田が誇る、家中随一の猛将と謳われる武士の名。

目の前の赤鬼こそが、その本人であるというのか。


──だが。


(相手が誰であろうと構うものか。母の命を、故郷を奪った仇には変わらぬ!)


虎昌は胡蝶の憎悪に満ちた様子など意にも介さず、巨躯を胡蝶が眠る布団の傍らへと下ろした。

どっしりと胡座をかくその姿は、動かぬ山のようであった。

彼の背後に控える供の武士たちは、立ったまま主君に何かあれば即座に動けるよう、胡蝶の一挙手一投足を鋭い視線で見つめている。


虎昌は射殺さんばかりの胡蝶の視線を静かに受け止めながら、あくまでも穏やかな口調で語りかけた。


「そなたの武勇、見事であった」

「……なに?」


唐突な賞賛の言葉。胡蝶は思わず間の抜けた声を漏らした。

だが、虎昌は胡蝶の困惑など意にも介さず、言葉を続ける。


「その力を武田のために使う気はないか。さすれば、海野の家を再びそなたの手で再興することも、夢ではあるまい」


その言葉を、胡蝶は最初すぐには理解できなかった。


(……何を、言っているんだ、この男は?)


武田のために、力を? 海野の家名を、再興?

突拍子もない提案。胡蝶は呆然と虎昌の顔を見つめていた。


だが、その言葉の意味がゆっくりと脳髄へと染み渡っていくにつれて。

胡蝶の心の中にふつふつと。そして、やがて凄まじい勢いで燃え盛る感情が込み上げてきた。


それは、純然たる怒り。


──この俺に。


母を仇であるお前たちの仲間になれ──だと?


そして、海野の家を再興……?


その怒りは、母を失い空虚であったはずの心に、憎悪の炎を激しく赤々と灯らせた。

侮辱的な提案に、胡蝶の全身はわなわなと、屈辱と怒りに打ち震えていた。


「貴様は……貴様には、俺が家名のとやらのために戦っていたと、そう見えたのか」


その声には、殺気がはっきりと滲んでいた。

しかし虎昌は殺気を柳に風と受け流すように、静かに首を横に振った。


「そうではない」


そして、虎昌は遠い日の美しい思い出でも語るかのように、瞳にかすかな熱を帯びて、語り始めた。


「俺が月下の夜に見たのは、家名のためでも、ましてや生き残るための戦でもなかった。あれはまさしく──舞」


彼の瞳は目の前にいる胡蝶ではなく、あの月の下で母を守るために待っていた胡蝶の姿を見ていた。


「守るべきものを全て失い、自らの命の全てを一振り一振りに乗せて、天へと昇華させんとする、気高い終の舞。某は生涯、あの舞を忘れられん……」



胡蝶はその言葉に面食らう。

この男は自分を理解しているとでも言うのか。

巨躯に似合わず燦燦と瞳を輝かせて語る男は、まるで少年のようで……。


(……そんなことはどうでもいい!)


しかし胡蝶は、すぐに一瞬の動揺を振り払うようにかぶりを振った。

そして、心の底からの叫びを叩きつける。


「家名などいらぬ! 俺には母上や仲間たちが、ただそこにいてくれれば……それだけでよかったのだ!そんな俺の全てを奪った貴様らに従うものか!」


胡蝶の瞳から、憎悪の涙がこぼれ落ちる。


「必ずこの手で貴様らを討ち、母の……皆の仇を討つ!俺を飼いならせるなどと、思うな!」


激しい魂からの拒絶。

それを前にしても、飯富虎昌の山の如き静寂は揺るがない。

彼は感情的になる少年を静かに見つめ、やがて全く違う話題を呟いた。


「そなたの母御。我らで素性を調べさせてもらった」


唐突な言葉に、胡蝶の激昂が一瞬、戸惑いによって揺らぐ。


「琴御方。海野の当主・棟綱が娘御であったそうだな」


母の名と出自。

それを仇である敵将の口から聞かされ、胡蝶の動きは完全に止まった。

虎昌はさらに言葉を重ねた。


「そして、村上兵から琴御方の最期の様子も、詳しく聞いた」


虎昌は静かに、はっきりと告げた。


「某は、話を聞いた時、こう思った。──見事な最期である、と」


賞賛の言葉。

それを理解した瞬間、胡蝶の中で理性の糸が、ぷつりと音を立てて切れた。


「見事?」


胡蝶の瞳が信じられないというように、極限まで見開かれる。


「母の死が見事だと。そう言ったのか、貴様は……!死に、見事も、そうでないも、あるものか……!あってたまるものか!!」


絶叫と共に、胡蝶は痛む身体を無理やり布団から引き起こし、獣のように目の前の虎昌へと掴みかかろうとした。


「こやつ!」

「取り押さえろ!」


しかし、その腕が虎昌に届くことはない。

背後に控えていた屈強な側近たちが、瞬時に両腕をがっしりと押さえつけた。

暴れる胡蝶を側近たちが必死に取り押さえる中、虎昌は動じることなく憎悪に燃える胡蝶の瞳を、真っ直ぐに見つめ返していた。

そして、静かに言葉を続ける。

その声には不思議と、諭すような穏やかな響きがあった。


「あれこそ、誇り高き武家の女に相応しい最期の姿よ。敵に捕らわれ、その身に辱めを受けるくらいならば、自ら命を潔く絶つ」


そして彼は祈るように、気高き女性に敬意を払うように、目を瞑り言った。


「願わくば……某も彼女のように気高く、そして美しく散りたいものだと、そう思ったのだ」


その真摯な眼差しと、口ぶり。

虎昌の言葉には、胡蝶をからかったり、気を引こうとしたりするような、いかなる邪なものも感じられなかった。

そこにあるのは、命を賭して示した「覚悟」に対する、心からの憧憬と、敬意だけ。


「……」


仇であるはずの武田の将が、誰よりも母の気高い最期を理解している──

あり得べからざる事実に、胡蝶の燃え盛るような激昂は、行き場を失っていく。


(──なぜだ)


なぜ、この男が、母を理解しているのだ。

自分ですら、母を理解できないのに。


──何故!


理解不能な感覚。だが、それは確実に胡蝶の身体から力を抜けさせた。

憎悪の炎が消え失せていくと同時に、それまで無理やり奮い立たせていた身体から、すっと力が抜けていった。


その様子を見て、側近たちが胡蝶を押さえつけていた腕の力を緩める。

大人しくなった胡蝶の前に、虎昌は静かに告げた。


「琴御方の遺骸は、我らの手で丁重に弔わせていただいた」


虎昌は一度言葉を切ると、胡蝶の瞳を真っ直ぐに見つめた。


「後ほど、彼女の墓へと案内させよう」


──墓。

それを聞き、胡蝶の心と体が一段と重くなった。

母がこの世にはいないのだという、動かしようのない現実。

そして、母の気高い最期を仇であるはずの目の前の男が誰よりも深く理解し、敬意を払って弔ってくれたという信じがたい事実。


胡蝶は感謝と悲しみと、消すことのできぬ憎しみとがぐちゃぐちゃに混ざり合った混沌とした感情の渦の中で、何も言えずに大人しくなっていた。

もはや暴れる気力も、理由さえも見失ってしまっていた。


「……」


抜け殻のようになった胡蝶の姿を見届け、飯富虎昌は巨躯をゆっくりと立ち上げた。

そして部屋の入り口に立ち、有無を言わさぬ静かな命令を下す。


「来い。とある御方が、そなたに会いたいと、仰せだ」


今の胡蝶にはそれに応えることも、逆らうこともできなかった。

その場に座したまま、目の前の巨大な赤鬼の背中を見つめているだけであった。

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