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第五十六幕 宿命の対面、憎悪の織手

飯富虎昌に促され、胡蝶はとある広々とした部屋へと足を踏み入れた。

その部屋は決して金銀で飾り立てられたような華美なものではない。

しかし磨き上げられた床柱、上質な畳、そして部屋にほのかに漂う上質な墨と古い書物の匂い……全てが、この部屋の主が身分の高い人物であることを静かに物語っていた。


そして、部屋の奥。

縁側に向かって、一人の青年が書見台に置かれた一巻の書物を、静かに読み耽っている。

背中はまだ若々しい。しかし、ただそこに座しているだけで周囲の空気を完全に自らのものとして支配しているかのような、絶対的な風格を漂わせていた。


虎昌と胡蝶が入室しても、青年はこちらに一瞥もくれない。

この部屋に自分以外の人間など存在しないかのように、静かに書物の世界に没頭している。


(この男は、一体……?)


胡蝶は傲慢な背中を鋭い視線で睨みつけた。

その時であった。


(!)


青年の背に染め抜かれた紋様が、胡蝶の目に飛び込んできた。

四つの菱形が、組み合わさった忌まわしき紋様。


──武田菱。


その瞬間、胡蝶の瞳に燃え盛るような憎悪と、警戒の色が浮かんだ。

誰であろうか構うものか。武田の縁者ならば、等しく怨敵。

家族の命を、故郷を奪った決して許せぬ存在──。


虎昌は、そんな胡蝶の傍らで、石像のように音もなく立ち続けている。

部屋には衣擦れの音すら聞こえない、張り詰めた重い静寂が流れていた。


そんな空気の中、男──晴信は胡蝶が背後から放つ凄まじいまでの殺気などまるで意にも介さず、静かに口を開いた。


「兵部之介より、耳にしておるぞ。お主、舞が得意であるとな」


その声には嘲笑の色は滲んでいない。


「男の身でありながら蝶のように舞うとは風流なことよ」

「……なに?」


脈絡もなく突然に発せられた言葉。

胡蝶は言葉の意味を、すぐには理解できなかった。


(舞……?風流……?この男は一体何を言って……)


場違いな言葉に、胡蝶の燃え盛っていたはずの憎悪の炎が揺らめいた。

だが、晴信は胡蝶の内心などお構いなしに言葉を続ける。


「美しいものは良い。人の心を豊かにする。だが、美しすぎるものは時として人の心を惑わせ狂わせる。そなたの舞は果たしてどちらであるのかな」


禅問答のような、抽象的な言葉。

胡蝶は、怒りよりも、ただ不気味なほどの得体の知れなさを目の前の男の背中に感じていた。


そして、晴信は唐突に、問いを投げかけた。

その声はそれまでとは打って変わって、氷のように冷たい。


「──ところで。その女子と見紛う細い腕で、村上の兵を何十人と斬り捨てたそうではないか」


晴信はそこで一度言葉を切った。

そして、心底楽しげにこう続けたのだ。


「さぞ、心地の良い舞であったろうな。その時の気分はどうであった?」


それは、人の心に土足で踏み込むかのような問いかけ。


「──」


その言葉を聞いた瞬間。

胡蝶の脳裏に、血と狂気に満ちた月夜の光景が鮮明に蘇った。


ごとり、と、首が地面に落ちる感触。

胸の奥深くまで、刀が吸い込まれていく肉の柔らかさ。

命乞いをする兵士の顔。絶望に歪む兵士の顔。恐怖に引きつる兵士の顔。

自分がこの手で斬り捨ててきた者たちの、断末魔の表情が次々と目の前に浮かんでは消えていく。


「ぐっ……」


そして──。

弥助。吉兵衛。権太。

血に濡れて倒れていった仲間たちの瞳。


最後に。

自らの喉に短刀を突き立て、静かに微笑んでみせた母の美しい最期の顔が──。


「……」


おびただしい死の記憶の奔流。どうしようもない不快感に、胡蝶の身体がふらりと大きくよろけそうになる。

だが、次の瞬間。

そのよろけた身体を内側から支えたのは、凄まじいまでの激しい怒りの炎であった。


「──ふざけるな」


その言葉には一切の混じり気のない殺意だけが込められていた。


「貴様などに……!」


胡蝶は怒りに震える唇で絶叫した。


「貴様などに、俺の何が分かる!どうであった……だと?愚弄するのも、大概にしろ……!」


激しい怒りに胡蝶の身体は、再びよろめく。

だが彼は、それでも目の前の傲慢な背中を決して視線から外さなかった。


「俺が今、何を思っているか教えてやろうか」


その声は怒りを通り越して冷たく澄んでいた。


「貴様のような武田の血を引く者全てを、この手で八つ裂きにしてやりたい。……ただ、それだけだ!」


剥き出しの憎悪と、殺意。

それは物理的な力を持ったかのように、部屋の空気を激しく震わせた。

傍らに控える歴戦の猛者であるはずの飯富虎昌でさえ、凄まじい気迫に思わず息を呑むほどであった。


しかし。


凄まじいまでの殺気と憎悪をその身に真っ直ぐに受けながら、晴信は春の心地よい風でも頬に受けているかのように平然としていた。

それどころか、彼は初めて、心底楽しげに笑ったのだ。


「──素晴らしい」


晴信はそう呟いた。


(──なに?)


「その憎悪、その殺意、その激情……。ああ、実に素晴らしいものだ。しかと受け取ったぞ」


晴信はなおも楽しげに続ける。


「女子のような見目に反して、随分と骨のあることを言うではないか。それでこそ男子よ」


予想外の、そして理解不能な反応。

胡蝶は燃え盛っていたはずの憎悪の炎の行き場を完全に見失い、言葉を失った。


(何を言っているのだこの男は……?俺は今、貴様を殺してやると……)


そんな胡蝶の困惑を意にも介さず、晴信は背を向けたまま、静かに語り始めた。


「恐怖で支配されただけの兵や、恩賞目当てで動く兵は弱い」


晴信は、静かに断言する。


「なぜなら……より大きな恐怖や、より大きな恩賞を提示する、より強い主君が現れれば、いとも容易く裏切るからだ。最初から、命を賭けようとは思っておらぬ」


その声は静かだが、部屋の隅々にまで、染み渡るかのようであった。


「だが、憎しみは違う。お前今その身に宿している憎悪はな……。何よりも純粋で、何よりも強く、そして何よりも美しい尊きもの」


晴信はそこで一度言葉を切った。


「忠義で鍛えた刃は折れる。恩賞で鍛えた刀は曲がる。──だが」


その時、それまで背を向けたまま微動だにしなかった晴信の身体が、ゆっくりと胡蝶へと向きを変え始めた。


「──憎悪で磨き上げた剣は、決して折れも曲がりもしない。この世で最も鋭い刃となるのだ」


そしてついに、晴信は胡蝶の方へと完全に身体を向けた。

初めて見るその顔。

その瞳には侮蔑も同情も一切ない。

そこにあるのは、一つの類まれなる「価値」を持つ「道具」を値踏みするかのような、冷徹な光だけであった。


「──!」


晴信は氷のような瞳で胡蝶を真っ直ぐに射抜きながら言った。


「俺はお前に犬のような忠誠など求めはせぬ。その見事な憎悪の全てを俺に預けてみせよ。そう……それだけでいい。──どうだ? 悪い話では、あるまい」

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