アプリは、早い話がファッションゲームだ。
ユーザーはゲーム内における自身の分身──…容姿からカスタムしたアバターで、着せ替えを楽しむ。衣装や装身具は、アイテムとの交換、限定ガチャ、ドローイング機能を使って自身で描くなり写真を読み込むなりして仕上げるという、三つの入手法がある。完成したコーディネートをAIが評価して、ユーザー同士が点数を競うバトルもあるようだ。
プレイ履歴を開くと、やはり誰かが触っていた形跡があった。過去に編集したアバターは保存出来るらしく、くすんだ赤い髪の美女のイラストが数枚ある。現実なら絶対に得られないだろう容姿の彼女は、溜め息の出るようなドレスをまとっている。
そこで私は、はたと気付く。
「このアプリ、初めてよね?」
操作手順を一読したにしても、慣れている。
私は、ヘビーユーザーが長年やりこんできたゲームをいじるくらいの手際で、ファッションゲームに指を遊ばせていた。
宿の外では、満身創痍の兵士達が戦っている。私の今の行動は、道徳的に問題だ。
だが、不思議と罪悪感が湧かない。むしろ今こそ着せ替えゲームをすべきだと、脳が指令を出している。
私は、プレイ履歴から一枚の絵をアバター編集画面に起こして、赤髪の美女のカスタムを始めた。
見れば見るほど美しい。適度に美術的な絵のタッチも、大人の琴線に触れるのではないか。
髪をまとめて、大きなフリルがフロントスタイルを飾るブラウス、薔薇模様のジャガード生地で仕立てたベスト、さざなみを彷彿とするアシンメトリーの入ったマーメイドラインのスカートを合わせて、ルビーの色のペンダントを追加する。それから、青いショールをデータフォルダから読み込んで、黒にカラーチェンジすると、アバターの肩に羽織らせた。
初めてにしては、なかなかのセンスだ。
完成したコーディネートに惚れ惚れして、私は決定ボタンを押した。
右上にニつあったロールケーキのアイコンが、一つ消えた。
どうやら、それがゲームのヘルスポイントらしい。アバターを一つ仕上げるごとに、消費するということか。三つまで貯められるようだが、元から一つは減っていた。
突然、異変が私を襲った。
読み込み中という文字の回転を画面上に見ていた私は、誰かが細胞をかき回してくるような、それでいて、不快というより天使の愛撫を体内に受けている感覚がし始めたのだ。天寿を全うした人間が、天国への門を見付けた時、こんな満ちた心地になるのか。
光が意識を覆った次の瞬間、私の視界から、読み込み中という文字が消えた。
タブレットより至近に位置する視界の端に、くすんだ赤い髪が映った。自分の手に目を遣ると、やけに細い指が並んでいる。それに、私は身に覚えのないドレスを着ている。
私は洗面所に駆け込む。
むん、と男の匂いが浴室から立ち込めるのも構わないで、鏡を見ると、そこには赤の他人がいた。
さっきまでカスタムしていたアバターにそっくりだ。イラストから抜け出てきた分、精細度が増して、息をのむほどの迫力だ。
私は、別人物に変貌していた。
さっきの妙な感覚が、私を美女の姿に変えたらしい。
はっきりした目鼻立ちに、無駄な肉付きも骨の歪みも落とした輪郭、指に通せば水のように流れる髪、すらりとしているだけでなく、ほど良い弾力をまとった肉体──…再現されているのは衣装もだ。ブラウス、スカート、ベストに加えて装身具まで、ペンダントトップは確かに赤色を選んだが、ルビーであるのは私にでも分かる。テンプレートを使って変更した通り、髪はサイドを残したアップスタイルに結われている。
元の姿に愛着はなかった。だが、取って付けただけの容姿というのは、想像以上に落ち着かない。
反面、鏡に向かっていると懐かしくなる。それだけ、こうなるのを私が望んでいたのか。
ぐらぐらっ。……
足元の揺れが、私に非常事態を思い出させた。
寝室に戻ると、外の惨事は悪化していた。兵士達は魔獣の退治どころか、防御だけで精一杯のようだ。
ふと、雨でも降らないかと思った。
町を消火して、魔獣を体内から湿らせて、二度と炎など吹けなくなるよう戒める雨が。
窓枠に身を乗り出した私の頭上に、曇り空が広がっている。
雨くらい降ってくれてもいいだろう。
胸中、そんな風に語りかけながら、空に手のひらを向けて片手を上げる。
私は何を思ったのか。前の世界での幼少期に見た、子供向けのアニメでも思い出したのか。
だが、町の被害は他人事ではない。いつ私に飛び火するかも分からない。生きて楽しいこともないが、死因が巻き添えというのは納得いかない。
魔獣を倒そう──…。
武器など握ったこともない私が、ごく自然にそう思い至った。
雨をイメージして、空を覆う雲に命じる。
ザーーーーー
「っ……?!」
私は、思わずその場に屈んだ。
悪事を働いた人間のように辺りを見回して、窓に首から上だけを出して、もう一度、外の様子を窺う。
二つの鬼の頭が酷く苦しんでいた。尻尾は小刻みに震えて、逃げ場を探しているようである。
「もっと激しく」
呟くと、雨が勢いを増した。
天上にいる慈悲の女神が巨大なジョーロを傾けでもしたように、土砂降りの雨が町を覆って、鬼とドラゴンが融合した風な怪物の鱗を水浸しにする。
兵士達は、雨よけを探すか武器を握り直すかの、おおむねどちらかの行動をとっていた。前者の彼らは負傷が酷く、後者は、衰弱していく魔獣を前に、勝機を見出したと見える。
まもなくして、彼らは魔獣を仕留めた。レイモンの矢は雨で火が点かなかったが、他の兵士らの一斉に放った銃弾が、魔獣の断末魔を引きずり出した。
事後処理を始めた彼らを見下ろして、私は今の一部終始を振り返る。
頭で思い描いた通りになった。子供騙しのままごとめいた私の念が雨天を呼んで、魔獣を窮地に追い込めた。
未知の経験のはずなのに、初めて体験した気がしない。心当たりは全くないが。
ややあって、階段を駆け上がる足音が近付いてきた。