私はクローゼットに逃げ込んだ。
その日暮らしの醜女が、どこでズルして、奇跡にありつけたのか。タブレットは盗品か。
そんな疑惑がかかりはしないか、という強迫観念が、私に身を隠させたのだ。
洋服を収納するための空間から腕を伸ばして、扉を閉める──…
はずだった。
「サエさん……!」
間に合わず、綺麗な男の笑顔が私を覗いた。
鼻の下が伸びたレイモンは、本当にさっき激闘にいた人物か。
クローゼットの扉に添えた私の手を、彼が仰々しく握る。もう片方も同じようにした。
「それでこそサエさんだ!さっきのは間違いだったんだね。可哀想に、何であんな姿になってしまっていたんだい?誰かが美しい君に妬いて、嫌がらせした?」
彼は、この姿こそ私の素顔とでも勘違いしているのか。そう言えば、さっきも彼は私をさんざん貶したあと、本物はどこかと訊いていた気がする。
私と同じで、彼も寝ぼけていたのだろうか。
昨夜も美女と宿に入った錯覚でも見ていたなら、金庫の大金も合点がいく。
…──待って。違う。
私はクローゼットを抜け出して、レイモンの手をあしらった。そして、タブレットをまじまじ見る。
寝ぼけていたのは、私だ。
昨夜、私は馴染みの斡旋者を介して、彼に会った。彼は初め、レストランなら腐った魚でも出された客の表情を見せたが、じきにいたずらを思いついた子供の目つきになって、歯の浮くような台詞を並べて、好きな宿を選べと私に言った。彼ほどの身なりの貴族なら、高級宿が相応しかっただろうが、私はいつもの仕事場を選んだ。そして交替でシャワーを浴びると、まずは盃を交わした。…………
「思い出したという顔だね」
私は頷く。
「最高だったよ、サエさん。まさか君が素顔を隠していたなんて。魔法の板は、どこの錬金術師が作ったの?そろそろからくりが知りたいな」
後方から私に腕を絡めたレイモンは、おそらくチェストの上に視線を注いでいる。
彼の話の通りだ。タブレットは昨夜からあった。
私は二十八年前に手放して以来の仕事道具の出現に驚き、戸惑っていた。一方、酒に酔った彼は未知の電子機器に興味を示して、使い方を知っているなら見せてくれとせがんできた。応じた私は、覚えのないファッションゲームアプリに気付いた。彼は、私が渋々カスタムした赤髪の美女の素体に、すこぶる乗り気でヘアメイクやコーディネイトを施した。酒のせいだったとは言え、その姿は、まるで聞いていた年齢の半分ほどに見えたものだ。少なくとも年長者とは思えないほど無邪気にゲームを楽しむ彼に、悪い印象は覚えなかった。
「そして、あなたがアバターを完成させて、決定ボタンを押した時、……」
私は極上の夢見心地に引きずり込まれて、画面上の美女と同じ姿かたちになったのだった。右上のヘルスポイント──…ロールケーキのアイコンが、一つ消えた。
どうやら、ファッションゲームアプリでカスタムしたアバターが、この世界でのデューブになるらしい。ただし半永久に有効なそれと違って、私の場合、制限時間付きと考えられる。
ようやく話の通じた私に、綺麗な男がより嬉しげに頷いている。
私から腕をほどいたレイモンが、粗末な寝台に腰かけた。彼の好意と好奇心の混在した眼差しが、私を無遠慮に舐め回す。
「後腐れのない女性の時間を買って、何もしないで一晩過ごしたのは初めてだ。何もしなかったのは残念だけど、眺めてるだけで満たされる。女神にお布施もしたくなるよね」
「じゃあ、あの大金は……!」
「付き合ってくれたお代。本当にどこで手に入れた?まぁ、いいや。これも使ってみてよ」
そう言ってレイモンが渡してきたのは、乳白色の石の欠片だ。
見た途端、どうしてか私は直感した。
退治した魔獣から採取出来ると言われている、特別な魔素だ。
「こんなもの受け取れな──…」
「試したいんだ」
レイモンの神妙な顔つきが、躊躇う私の思考を止めた。
彼が続ける。
「朝になると、サエさんは宿に入った時の姿に戻っていた。考えられる可能性として、魔法の板かデューブの魔素が、弱いからだ」
「つまり魔素を強化すれば、もっと長く、この姿を維持出来るかも知れないと?」
レイモンが頷いた。
だが、私は彼の厚意を辞退した。
初めて手にした大金だけでも手放しに喜べないのに、魔素まで受け取れば、私は彼のどんな要求をのまなければならなくなるか分からない。デリヘル嬢としての仕事なら、応じる。だが、十分な地位も名誉も容姿も持ち合わせた彼の望みが、ただそれだけとは考え難い。
「ごめんなさい」
タブレットを拾い上げて、私は窓に淡く映ったマーメイドラインのドレスに目を遣る。
「この姿は維持したい。だけど、初対面のあなたを頼ってまで、今それが必要か。すぐに答えを出せないのは、察してちょうだい」
レイモンが、数回、目を閉じたり開けたりした。第三身分の女がまたとないようなチャンスを逃したことに驚いたのか、彼にノーと答えた女が存在した事実に驚いたのかは、分からない。
だが、彼は引き下がった。
魔素は受け取らなくて良い。元の姿に戻ったら、目の保養でなくなるだけだ。こう言って、話を続けた。
「昨日、出逢ったのも何かの縁だ。サエさん。その姿はもう少し保持出来るね?会って欲しい友人がいる。あなたを友人として連れて行っても構わないだろうか?」
「…………」
私は、逡巡を振りきって頷く。
一夜にしておよそ六年分の金を稼いだ。色々なことがありすぎて、どのみち今夜は、働こうという気にもなれない。