私が宮廷画家の助手になると決めたあとも、レイモンは変わらず家を訪ねてきて、覚えたところで何の役にも立たないだろう無駄話で、私の暇を慰めた。リュカとベレニーも以前と変わらず、リビングから見える畑に白い苺が生息するようになった私の新居を訪ねてきては、もてなしたお菓子に舌鼓を打つ。私は彼らに質疑して、デューブの知識を増やしていく。彼らはもちろん、アベラも気に入った田舎の景色をスケッチに来るロランスも、宮廷が合わなければいつでも寝返ってくれば良いと言って、私を気遣う。
いよいよハンシルポ王妃との対面を控えた二日前、アベラが彼女のビジネスパートナーを伴って来た。
錬金術師のルイーズも、夢に見ていた通りの容姿だ。
私は動揺の仕方も忘れていた。既視感に麻痺していた。
「初めまして、ルイーズさん。先日は、錬金術協会から親切な方を派遣していただいて、有り難うございました。お陰様で、素晴らしい肥料が採れました」
「サエさん、初めまして。喜んでいただけて嬉しいです。本当は私が伺いたかったのですが、手が離せず……。そうそう、王妃様も大変お喜びです。ローズ・デュ・フレジェ。彼女の名の付いた白苺が、見た目までそっくりなんですもの」
ルイーズに肩を並べていたアベラが、得意げに頬をゆるめた。
彼女が白い苺の名付け親だ。ローズがハンシルポの白薔薇と呼ばれていることや、彼女が白や金を好んでいることなどを教えてくれた。そして、ローズ・デュ・フレジェは、白くてもほんのり紅潮している。その色素は、ローズの髪色を思い出すという。
私とアベラ、そしてルイーズは、主君の名前の付いた白苺を使った焼き菓子を賞翫しながら、今後の打ち合わせを進めた。
宮廷作法をほとんど心得ていない私は、彼女達の教えの下、基本知識を頭に詰め込み、ローズをとりまく人事を始め、宮廷内の要人など、最低限の情報も押さえた。
お茶会のあと、ルイーズがいよいよ本題に入った。彼女が私を訪ねてきたのは、新居に穴を空けるためだ。
とは言え、その穴は可視化出来ない。謂わばここと首都を繋ぐ異次元空間で、それが私の通勤手段になる。
「ローズ・デュ・フレジェ一粒に、ナーリエムス公国海峡で採れる真珠一つ分の価値があります。人を雇って生産率を上げれば、首都に別邸をお建てになれるのでは?」
「ゆくゆくは。でも、しばらく静かに暮らしたいんです。芸術や土地も学びたいですし……」
ルイーズの作業を見物しながら、私は彼女達に最近の夢を打ち明ける。
白苺を出荷して、私財の桁数にまたゼロが一つ増えて以来、私は金の勉強を始めた。今なら、アベラが私に魔獣退治を勧めなかったのが分かる。初期費用さえあれば、伸び代のある芸術家を雇ってサロンや展示会を開いたり、土地を取引したり、稼ぐ手立てはいくらでもある。
「爵位にはご興味ないんですの?」
つと、アベラが問いかけてきた。
確かに、富を得た第三身分の人間は、最終的に身分まで買う。
それは、貧しかった人間が自身の挽回を実感出来る、ひとつの材料になり得る。
だが、私にはしっくりこなかった。今の私は第三身分の市民のまま、上流階級の男達を札束で殴って跪かせたい。
* * * * * *
ハンシルポの宮廷では、毎週末、第二身分以上の人間が、礼拝堂で祝福を受ける。
小間使いや清掃員、調理人、庭師など、身分のない彼らも仕事の手を休めてロザリオを握っていると小耳に挟んだことがあるが、エクトルが処罰を禁じている。良く言えば寛大で、悪く言えばずぼらなわたしの夫は、彼らにも信仰の権利はあると考えているようだ。
ミサには、セヴランという司教が呼ばれてくる。
三十代で妻子を亡くした彼は、余生を神と王室に捧げる決意を固めたというが、私を含めて、彼に不審をいだいている貴族達は少なくない。
柔らかな朝陽を透かしたステンドグラスの天井に、他者への見栄に心血を注ぐ盛装の数十名の讃美歌が響く。
春は近いのに、まだ肌寒い。
こんな朝にも薄汚い下町などで硬い寝具で目覚めるような生活とは無縁であることに感謝して、わたしは最後の歌詞を歌い上げた。
ミサはここから、国家の繁栄を祈って黙祷、そして神託と続く。
だが、わたしは既に退屈している。何につけても効率を重視していた故郷のナーリエムス公国と違って、ここは何においても回りくどくて無駄が多い。十九歳の少女には、聖書の話も響きにくい。
「恐れながら、国王陛下。王妃様」
間一髪、私を夢うつつから引きずり戻したのは、セヴランにしては珍しいほど固い声だ。頭に花畑でも広がっているような普段の彼らしからぬ語調は、わたしたちの後方に並ぶ貴族達にも、緊張感を伝染させた。
私は、彼の蒼白な顔を見たことがある。
司祭も生身の人間だ。気の進まない仕事に直面することはあるし、だからと言って、特に王宮での神事に手は抜けない。
絶対的地位を誇る王族と、不可侵の教会。
王族が万能ではないのと同じで、聖職者達も無敵ではない。
例えば、神への祈りが届かない時、不吉な神託を授かった時、彼らに対処する術はない。
「革命の兆しが見えております」
案の定といったところか。
貴族達がざわついて、彼らのうち数人が、セヴランに厳しい目を向けた。
だが、聖職者は嘘をつかない。
ただ神の言葉を伝えるために、彼が続ける。
「国民達の不満が募り、不穏な影が現れています。おそらく、どこかで謀反の準備が進んでいるかと」
「どこでです?!」
「謀反人どもを引きずり出せ!」
激高する年長者達を無言で制したエクトルが、セヴランに耳打ちする姿勢を取った。
「アンスィエル魔素は、我々を救うか?」
セヴランが首を縦に振った。
だが、世の理は数式とは違う、常に複数の正解と誤りが絡み合っているとも付け足した。
エクトルが声を潜めたのは、貴族達にも、王室がアンスィエル魔素を所持していない事実を明かしていないからだ。傾国の魔素とも呼ばれているそれが、実は不在とでも知れたら、わたし達の権威は崩れる。そればかりか、国民達は行方知れずの魔素を探して、我こそ次の君主だと言い出す者も現れるだろう。
「……分かった。今まで以上に、我々はアンスィエルの捜索に力を入れよう。そなたらにも協力願いたい」
エクトルにセヴランが頷いた。
わたしは、ドレスの裾をつまんで彼らの側に進み寄る。
「焦りは禁物ですわ、国王陛下」
一同がわたしに目を向けた。
完璧な王妃を装わなければいけない。無数の白い目をものともせず、わたしは彼らの自尊心をくすぐるための魔法を仕掛ける。
「ハンシルポは、由緒ある神の国。わたし達の祖先、ユベールは、代々、美しい国を治めて参られました。神の化身である国王様がこうも健やかで、皆様に愛されているというのに、何を不安に思われるのです」
「しかし……」
「神様は、親しい対象にこそ試練をお与えになります。主がキリストに、試練をお与えになったように。わたし達への神託は、最悪の事態を回避するためのそれに違いありません。アルコンスィエル魔素ではなく、わたし達は、神とユベール王朝を信じましょう」
はっと息を呑んだ気配が、わたしに押し寄せてきた。
最近、上流階級の間では、わたしの名前の付いた白い苺が流行っている。つまり、彼らは若く美しい王妃に未だ夢中だ。彼らのわたしへの反感は、恐れや嫉妬に他ならない。
わたしは、彼らにアルコンスィエル魔素を諦めさせなければいけない。