「サエ、レイモン!離れなさい!」
ローズらしからぬ切迫した声に弾かれるようにして、レイモンが私の腕を掴んだ。
私に抱きつくようにして腰を上げると、彼が顔を寄せてきた。
「あっちへ移ろう」
ローズとは真逆の方向を視線で示した彼に、私は頷く。
タタッ。
タブレットと剣を抱えて、若干重みを増したレイモンを支えるようにして、私は彼と密談していた時の植え込みに戻る。
「ローズ様、お逃げ下さい」
今にも駆け出してきそうな彼女に声を上げると、案の定、女神が地上を見下ろすような格好で、薄桃色の髪の少女が悲痛な顔でかぶりを振った。
「昼休憩の兵士達が戻ってきたら、わたしは彼らを誘導しなければいけないから」
「オレ達の役目です、王妃様!」
レイモンもローズに城へ戻るよう促した。
革命を企てていると言っても、そこはハンシルポの血が流れている。神の化身と伝承されてきた王族が魔獣の餌食になるのを見過ごせるほど、彼もローズ達に失望していないということか。
アベラがいれば、この場を切り抜けられるかも知れない。
つと、私は先月のことを思い出した。あの時も魔獣の出現になす術もなくなって、彼女の絵に救われた。彼女の才能があれば、私はローズもレイモンも守れる。
守らなければいけない。
スーーー……
私は、タブレットのファッションゲームアプリを開いて、ペン先を滑らせていく。
アベラを待つわけにはいかない。散々だった人生出だしの釣り銭は、自力で取り戻すと決めた。
美しければ不可能はない。
そんな言い訳も過去の私なら不都合があれば通しただろうが、実際、姿かたちの変わった私は、言い訳より、理想をこそ通す。
「サエ……!」
ローズの声に顔を上げると、私とレイモンを追った魔獣が、植え込み至近に迫っていた。確かに片目を負傷していたそれは、何事もなかったかのように全治して、さっきより力強く走行して、例の煙を撒き散らしている。
グルルル……
ビュッ!!
地面を蹴った魔獣の影が、私とレイモンに迫る。
剣と水鉄砲を同時に構えた私の視界を、芥子色の光が覆った。
「デューブの魔素に融合させて!」
聞き馴染みのない男の声に、私は目を瞠いた。
辛子色の光は、さっき私の出した水の壁とは異なるものだ。私達と魔獣の接触を防ぎながら、それは従来の用途とは外れていて、人智を超えたような何かで成立している感じがある。底知れない生命力を見出した時、私はそれが、解放された魔素だと察した。
「早く!!」
声に急かされるようにして──…そうでなくても前方の魔獣が吸収しないよう、私は咄嗟にタブレットを向けて願った。
魔素の扱いは心得ていない。デューブが何かも、あれだけ憧れていたにしては、分かっていない。声に従う術もなく、ただ私は強力な武器を練装する自身をイメージして、光をタブレットに受け取った。
「…………」
魔素とタブレットが馴染むまで、光が魔獣を拒絶していた。
レイモン曰く、魔素は生きている。一度主人と認めた対象の他に力は与えず、私のタブレットをアップデートした以上、魔獣に有利に動くことはなくなったらしい。
厳密には、ファッションゲームアプリが更新されていた。描画機能に補正AIが加わっていたのだ。
「よく分からないけど、サエさんの酷い絵が、上手くなるということかい?」
非常に訂正したい気持ちを抑えて、私は頷く。
そして、優秀な人工知能の実力とは言え、みちがえるように上がった画力に驚きながら、私は液晶のキャンバスに絵を描いていく。
* * * * * *
アップデートしたファッションゲームアプリから、私は陽の光を浴びた水槽を練装した。
魔獣が収まるほどのサイズのそこに、私は標的をおびき寄せた。案の定、魔獣は突如として出現した水の箱に警戒する。そこでレイモンの知識を借りた。庭園には、戦場で敵を弱らせる時に用いられるという、空腹を促す毒草もある。それだけを選んで詰んできた彼にそれを焚かせて、私はトカゲの好物である昆虫、そして魔獣の特性も慮って、肉を追加で練装した。それらによだれを垂らした魔獣から、あとは理性を奪うだけだ。挑発して、餌の場所に誘導して、私達はあくまで逃げきる。
まもなく食欲と苛立ちが絶頂に至った魔獣は、水槽に浮かんだ昆虫めがけて投身した。
ザブーン!!
練装した光が得体の知れない黒い煙、つまり影を抹消して、強力な酸性を含んだ水中で、魔獣は粘膜から溶けていくしかなくなった。断末魔の呻吟と飛沫の音がしばらく続いて、指令を受けて駆けつけてきた兵士達が到着した時、騒動の元凶は見る影もなくなっていた。
後処理を始めた兵士達から報酬の魔素を受け取って、私は声の主を探す。
すると、さっき辛子色の魔素をくれた本人と思しき男が、ローズから九十度離れた地点にいた。
第三身分だ。
男の身なりで、すぐ分かった。
だが私は、彼の立ち位置まで見当つけられない。宮廷に出入りしている人間にしては粗末な格好をしている反面、町で暮らしているにしては、端正な顔立ちなのである。
もっとも、デューブの使用が禁じられて、日も浅い。目鼻立ちだけでは、まだ身分まで断定出来ない。
そこまでの思考を一瞬の間に巡らせた私に、男がため息を漏らした。
「やぁ。すごい能力だったね。助け舟を出した甲斐があったよ」
随分、気安い人物だ。
私は男をまじまじ見て、単刀直入に素性を問うた。
近くにはまだローズがいる。目前の男が侵入者なら、彼女に被害が及ばないよう、警戒する義務がある。
やや遅れて、後方に足音が近付いてきた。レイモンが私に肩を並べた時、正面の男が口を開いた。
「初めまして、宮廷のお二方。私はオレール。報道員、並びに記者をしております。本日は取材のため、門番に無理を言って入城させていただきました」
胸に片手を添えて会釈したオレールは、ローズに気付いていないのか。顔を上げると、彼女のいる方角には目もくれないで、タブレットに興味を示した。