それからも二人はアンナの家で過ごした。
新年を迎える準備が整うにつれ、毎日生殺しに遭うグレイの限界も迎えている。
二人の心は、これ以上にないくらいに近くなってはいるのだが。
(まだ、アンナは寂しそうなんだよな)
長年積み重なった孤独を、すぐに払拭できるとはグレイも思っていない。
アンナの中で、なにかが引っ掛かっているのだ。だから、最後の一線も中々越えられずにいる。
今日は、今年最後の日である。
夜になると、グレイは月を見ないかと、アンナを自分に当てられている部屋に誘った。
「この時間、ここからの月がよく見えるだろ」
「ええ、本当ね……」
アンナは月を見上げているが、どことなく寂しさが醸し出されている。
それを見て、グレイにも不安が押し寄せた。
「綺麗……だけど……」
「……アンナ」
アンナの指先が、微かに震えた。
美しい月が、アンナには孤独に見えたのだ。
いつも母は何時に帰ってくるだろうかと外を覗くと、そこは人影もなく、ただの暗い闇であった。
真っ黒な空を見上げると、広くて吸い込まれそうで、自分が独りだということを顕著にさせた。
(怖い……)
アンナ自身、なぜそう思うのかわからなかった。
蓄積された孤独を振り払わなければいけないと、自分でもわかっている。
今は隣にグレイがいるというのに、寂しいという感情を抱いては失礼だと。
なのに、宇宙に一人取り残されているような感覚が、どうしても拭えない。
「大丈夫だ、俺がいる」
グレイはアンナの気持ちを慮り、ぎゅっと抱きしめた。
与えられた体温を享受したアンナは、なぜだか余計に苦しくて泣きそうになる。が、涙は出ない。
アンナはもうずっと何年も泣いていなかった。泣けば、人を、母を、悲しませるとわかっていたから。我慢を重ね続けて、どうやって泣くのかも忘れてしまっていた。
己の胸の中で震えるアンナを見て、グレイは歯噛みする。
「……俺じゃ、力不足なのか……」
アンナの孤独を。
アンナの不安を。
自分では取り払えないのだと感じたグレイは、己の無力さを嘆くように溢した。
そんなグレイに、アンナは彼の胸の中で首を左右に振ってみせる。
「違う……違うの。好き、好きよ……グレイ」
アンナは気持ちを言葉で明確に伝える。
最初は偽装の付き合いだったというのに。
いつの間にか、グレイがこんなにも心の中を占めていた。
胸の中からグレイを見上げると、彼は月の光を浴びていて。
アンナはその姿に漠然とした不安を覚える。
強くて精悍なはずの男が、どこか儚く散ってしまいそうで。今にも月に連れ去られそうで。
「グレイ……」
アンナは、自らキスをせがんだ。
グレイを捕まえて、離さぬように。彼の孤独もまた、癒せるように。
「アンナ……ッ」
求められたグレイは、それに応える。
お互いを強く抱きしめて、唇を重ね合わせて。
アンナはグレイの、さらりと揺れる金髪を撫でる。
互いを求め合う瞳を交差させると、そのままベッドへと倒れ込み。
そしてその夜、二人の影はひとつになったのだった。
***
翌朝。
そろそろアンナの母親のアリシアが帰ってきそうだという時間になって、二人はバタバタと起き出した。
昨夜のことを考えると、アンナは少し誇らしいような、気恥ずかしいような気分になる。
(あんなに満たされた気持ちになれるのね……)
未だかつて味わったことのない感覚に、アンナはいつまでも浸っていたかった……が、久々に母親が帰ってくるのだ。
いつまでも惚けた顔をしてはいられない。
どうせお腹を空かせてくるだろうからと、昼食の準備を二人は始める。
「そう言えばアリシア筆頭は、俺がここに来ていることを知ってるのか?」
「いいえ、言ってないわ。会ってないし、王宮に伝言を頼むまでもないと思って」
「大丈夫なのか、俺がいきなり上がり込んでいて」
「あの人は、そんなことを気にしたりしないわよ」
「確かに、『いつ結婚するの?』とかさらっと聞いてきそうだよな」
「本当ね。きっと言うわ」
笑いながら昼食の準備ができたところで、その声は聞こえた。
「ばばーーん! 新年おめでとー!! ……あら、グレイ」
リビングの扉をババンと開けたアリシアは、グレイを見上げて少し驚いた顔をしたものの、すぐにニヤッと笑った。
「ようやく来たのね。遅かったじゃない」
「ようやく来ました。おめでとうございます」
「お帰りなさい、母さん。新年おめでとう」
二人で並んで挨拶をすると、アリシアは顔を綻ばせた。
「おーおー、二人とも、大人びた顔しちゃって。うふふ。玄関の靴、誰かと思ってたのよ。あなたで安心したわ、グレイ。で、あなたたちいつ結婚するの?」
「ぶっ」
「もう、母さんったら。言うと思ったわ」
アンナとグレイは、顔を見合わせて笑った。
「あらぁ、どういう状況なのかしら!?」
「返事待ちです、アリシア筆頭」
「ということは、プロポーズは済んでるのね」
「はい」
それを確認したアリシアが、明るい緑眼をアンナに向けて真面目な顔をした。
「返事をしてない理由、なにかあるんでしょう」
「……ええ」
「父さんのこと?」
言い当てられたアンナは、申し訳ないと思いつつも頷いた。
アリシアは気分を害することもなく、にっこりと太陽のような笑みを見せる。
「あまり聞かれなかったし、詳しく言ってなかったものねぇ……いいわ、教えてあげる。なんでも聞きなさい」
「親子の話なら、俺は外した方が……」
遠慮するグレイに縋るように、アンナは彼の袖を掴んだ。
「いいの、いて、グレイ」
「そうね、家族になるなら一緒に聞いてもらう方がいいわ」
三人は落ち着いて話すためにテーブルを囲んだ。アリシアとアンナが対面に、アンナの隣にグレイが座る。
母親を前にどう切り出せばいいかと、アンナは頭を悩ませた。なんでもとは言っていたが、極力傷つけるような表現はしたくない。
アンナの言葉が決まる前に、アリシアが先に口を開いた。
「まず、グレイはアンナの父親のことをどこまで知ってるのかしら?」
「東方の出身で、アンナと同じ黒目黒髪ということくらいしか。あとはトレジャーハンターで、この家では靴を脱いで入る決まりを作ったと聞きました」
「ふふっ。そうそう、そうなのよね。懐かしいわぁ」
アリシアは思いを馳せながら、アンナの父親を語り始める。
「アンナの父さんの名前はね、ロクロウというの。トレジャーハンター仲間には、『雷神』っていう二つ名で呼ばれていて、そっちの方が有名らしいわ」
「雷神……」
「ええ。〝神足の書〟っていう異能を習得していてね。雷のように速く走るのよ。とってもレアな書で、同業者からは尊敬されているみたいだった。ロクロウは、本当にお宝を見つけるのがうまかったのね。マネーメイカーとも呼ばれていたそうよ」
アンナも聞いたことのある話を、アリシアはグレイに説明していた。
雷神はコムリコッツというの古代遺跡専門のトレジャーハンターであること。
その秘術や謎を解明するために、この地を出て行ったことを。
(やっぱり、母さんは捨てられたんじゃない)
アリシアとそういう関係でありながら、雷神はこの家を出ていったのだ。
アンナの心は押しつぶされそうなほどに苦しくなる。
「なにか言いたそうね? 言っちゃいなさい、アンナ」
「……でも」
「いいから」
強く促されたアンナは、仕方なく言葉を音に変換した。
「母さんも私も、父さんに捨てられてるわ」
意を決して言った言葉に、アリシアはきょとんと大きな目をさらに大きく見開いた。
「捨てられた? 誰が?」
「だから、私と母さんがよ」
「誰に?」
「父さんにでしょ! 父さんは、私たちを捨てて出ていったんじゃない! 家庭を捨ててまで、お宝を探したかったんでしょう!?」
今まで溜めに溜めていた悔しさが溢れた。
大きな声を出されたアリシアは、少し驚いたもののフッと笑みを見せる。
「そうよねぇ、周りからはそう見られちゃうのよね」
「だって、事実じゃない」
「うーん、説明が難しくてわかってもらえないかもしれないけど……少なくとも母さんは、捨てられたとは思ってないのよ」
「でも、父さんはなにも言わずに消えたんでしょう?」
「そうね。でもそれでよかったのよ。私は騎士の地位を捨てられない。ロクロウもトレジャーハントをやめられない。ただ、それだけの話だったの」
「……わからないわ……」
アンナは唇を噛み締めた。結局〝雷神〟はアリシアを置いていくという選択をしているのだ。
(本当に愛してたなら、出てったりしないはずよ。お腹の中に、私だっていたのに……!)
そんな悔しそうなアンナを見て、アリシアは少し眉を下げる。
「グレイのプロポーズを保留にしている理由は、それね?」
ズバリ言い当てられて、アンナは戸惑った。
隣にいるグレイが、なんのことかと少し眉を寄せる。
「結婚しても、いつか捨てられるかもしれない……そうしたらまた孤独になる……それが怖いんでしょう」
「……どうしてわかるの」
「伊達に何年もアンナの母親をやってないわよ。そんな風に寂しい思いをさせてしまった私に責任があるわ。ごめんなさいね……」
アリシアに寂しいなどと一度も言ったことはなかったというのに、見抜かれていた。
アンナは恥ずかしさと切なさを胸に抱えて、ぐっと唇を噛む。
「……母さんが忙しいのはわかってるわ。もう子どもじゃないんだし、平気よ……」
「……」
強がるアンナを、アリシアは批難しなかった。
ただ一瞬だけものすごく悲しそうな顔をしたあと、この母親らしくにっこりと太陽のように笑う。
「大丈夫よ、アンナ! グレイがロクロウのように消えるわけがないでしょう? あなたたち、同じ騎士になるんだから!」
アンナが隣に顔を向けると、グレイは大きく頷いた。
頭の中では父親とグレイは違うとわかっていても、どうしても消えてしまいそうな不安がアンナの心に渦巻いてしまっている。
「ちょっとグレイ? あなた、アンナを置き去りにして消えると思われてるわよ? 甲斐性がないんじゃないのかしら!」
「それは、これからどうにかしていきます」
「アンナの前から去るようなことは、しないわね?」
「それは、もちろん。約束します!」
力強いグレイの声に、アリシアはふふっと思い出し笑いをする。
「そうよねぇ。グレイったら六歳の時からアンナ一筋ですものね!」
「あ、筆頭、それは……」
「アンナがいつも一人でいるって言うと、『じゃあ、俺、アンナと結婚してあげる! 俺も一人だし、そうしたら二人とも、ずっと寂しくないもんね!!』って、こうだもの! かわいかったわぁ、あの時のグレイ!」
ケラケラとアリシアが笑い、グレイは恥ずかしくなって右手で顔を隠した。
そんなグレイを見て、アンナも少し笑みを溢す。
「あら、アンナに言ってなかったの?」
「いえ、言ったんですが、そこまで詳しくは……」
「ふふ、そう。これでわかったでしょう、アンナ」
アンナはアリシアの言葉に母へと目を向けた。
アリシアはニッと強く笑っていて、その心には確信が見える。
「グレイは、ずっとあなたのそばにいたいと願ってきたの。二人でいれば寂しくなくなるって信じてる。そんなグレイが、あなたの前から消えるわけがないでしょう?」
「……母さん……」
「大丈夫、あなたたちは私とロクロウのようにはならないわ。グレイを信じなさい」
グレイを、信じる。
父と母のようにはならないと。
一生そばにいるつもりのグレイと、別れなどあるはずがないのだと、アンナはようやく自分自身を納得させる。
「母さん……私、グレイと結婚するわ」
「ええ、それがいいわね」
アリシアがにっこりと微笑むと、アンナは隣から強く抱きしめられた。
グレイの優しさに包まれ、アンナもその背中に手を通す。
「アンナッ」
「ごめんなさい、返事が遅くなって」
グレイは左右に首を振り、そして噛み締めるような笑みを讃えたのだった。