トラヴァスが正騎士となり、首都ラルシアルにある王宮に勤務し始めて、ほぼ半年。彼は仕事に邁進していた。
軍学校時代、仲間にクソ真面目と言われていたトラヴァスは、ここでもそのクソ真面目をクソ真面目に発揮して、上官の信用を得るまでに至っている。
そして、同期のローズという女性と勤務当初に話す機会があり、それからまもなく彼女と付き合い始めた。
元々ローズは軍学校で支援統括班であり、トラヴァスとは顔見知り程度のものだった。しかしその優秀さで王宮勤務が決まり、十八歳での王宮勤務は二名だけだったため、急速に距離を縮めていったのである。
実はトラヴァスは、十五歳の頃から恋人が途切れたことがあまりない。
一番長続きしたのは、オルト軍学校を卒隊する前の一年半の交際だった。その彼女とは卒隊後も続いていくのだろうと思っていたのだが、卒隊間際に別れることとなったのだ。
彼女とは、趣味が合った。共にいるのも楽しかった。しかし、こう言われた。
『私は、夢を追いかけようと思うの』
トラヴァスは、彼女がそこまで真剣だったとは気付けていなかった。
アンナは寝耳に水だと言っていたが、トラヴァスもまた寝耳に水だったのだ。
『あなたに出会えて、決心がついたのよ。ありがとう』
彼女は、夢を選んだ。軍学校で培った技術とは、まったく関係のない道へと。
『トラヴァス。あなたも夢を追いかけない? 一緒に行きましょう』
愛する彼女にそう誘われた。正直、トラヴァスはほんの一瞬だけ迷ってしまった。
しかし勉強を積み重ねて大学府までの卒業資格をわずか十五歳で取り、それと並行して剣術を猛特訓し、軍学校に入ってからもたゆまぬ努力で卒隊主席まで勝ち取っていたトラヴァスは、彼女の言葉に頷くことはなかった。
『俺は、小競り合いばかり起こるこの国を……いつ本格的な戦争が起こるかもしれないこの国を、護るためだけじゃない。変えるためにここまできた。悪いが夢は一人で叶えてくれ。俺はその夢を守るために、騎士として生きる』
トラヴァスが明確な目的を告げると、彼女はわかっていたというように笑い。
そして最後に別れのキスを互いに求め、関係は終わった。
(俺の……いや、私の夢など二の次。やるべきことを終えてからだ。今の私は、この国を……)
目的のためにトラヴァスは走り続ける。
昔の彼女を思い出したトラヴァスは、毎朝日課のように読んでいる戯曲をパタンと閉じ。再度己の今の夢を認識して決意を固めると、いつものように無表情で寮を出た。
王宮に着き、騎士の詰め所に立ち寄ると、同期のウェイが声を掛けてくる。
同期と言っても、上級学校を通常の十七歳で卒業してから軍学校で三年過ごしたので、トラヴァスより二つ年上ではあるが。
「トラヴァス。昨日はオルトの剣術大会を観に行ってなかったな」
「ああ、仕事だったからな。どうだった、今年の剣術大会は」
「順当だったよ。一位がグレイ、二位がアンナだった。毎回初戦敗退のカールが三位だったのには、びっくりしたけどな」
カールが三位と聞いて、トラヴァスは一瞬だけ頬を緩ませた。
元々実力もあり、絶対に出てくるとは思っていたが、実績を得たとなればさらに嬉しい。
「あいつ、大会が終わった後、誰かを探してるみたいだったぞ。行ってやればよかったんじゃないか?」
「っふ……。来年、仕事でなければな」
友達甲斐のないやつだとウェイに笑われ、トラヴァスは詰め所を出る。
トラヴァスはデゴラが将を務める第三軍団、しかもデゴラの直轄部隊に配置されている。数日後に行われる秋の改編では、班長に任命されることが決まっていた。
小隊長、隊長、将、そして筆頭大将へと続く道の、第一歩だ。
隊での仕事が一段落し、トラヴァスは自主的な見回りをかねて、若草色の絨毯が敷かれた王宮の廊下を歩いていた。
すると、前方からやってくる現筆頭大将アリシアの姿を確認する。トラヴァスは数歩手前で立ち止まり、肩口に拳を当てる敬礼をした。
「アリシア筆頭、お疲れ様です」
アリシアは、アンナの母親である。
現在四十歳であるが、その身に特殊な異能の書を習得しているためか、二十代と言っても通るほどの若々しさと神々しさを放っている。
「どう、王宮勤めは。もう慣れたかしら?」
「はい。まだまだ未熟者ではありますが、先輩方に助けられながらなんとかやっています」
「謙遜するわねぇ。あなたの活躍は、もう私の耳にも届いているのよ?」
「恐縮です」
出世のためにはトップに覚えられるのはいいことだ。
アリシアはこの軍で一番忙しい人物なので、彼女も剣術大会は観ていないだろうとトラヴァスは口を開いた。
「昨日はオルト軍学校で恒例の剣術大会があったそうですが、アリシア筆頭は結果をご存知ですか」
「いいえ、聞いていないわ。知っているの?」
「はい、同期が観に行ったので知っています」
「教えてちょうだい」
トラヴァスは真剣な顔をしたアリシアに、先ほどウェイに聞いただけの結果を報告する。
「優勝がグレイ、アンナは準優勝で、三位はカールだったそうです」
「やっぱりグレイが一位だったのね。カールも大健闘じゃない。毎年入賞すらできていなかったんでしょう?」
「去年までのカールは、くじ運の悪さもありましたからね」
「ふふっ、トラヴァスも大会に出たかったんじゃない? あなたも優勝候補だものね!」
「もう純粋な剣術大会には出ませんよ。私はミックスを極めますので」
「ミックスね……手強くなりそうだわ」
「アリシア筆頭には敵いませんよ」
「なにを言ってるの! そこは『越えてみせる』くらい言ってみせなさいな!」
アリシアの言葉に、一瞬顔が緩んだ。
もちろん、そのつもりだ。しかし現時点では敵わないと自覚している。
それほどまでに、この筆頭大将はあり得ないほどの力を持っているのだ。
直接は見ていないが、あのホワイトタイガーをアリシアが一刀両断したという話をグレイから聞いた時、己との実力差に愕然としたのである。
(いつかは、超えてみせるが……その時にはアリシア筆頭は、引退しているかもしれんしな)
最後に「それじゃあ頑張って」と声をかけられ、トラヴァスはきれいなお辞儀をして見せる。
しかしその直後、廊下の向こう側から第一王子のルトガーと、第三王子のフリッツが護衛を連れて歩いてきた。さらにはその後ろには、第二王妃のヒルデもいる。
このストレイア王国では、レイナルド・バルフォア王に二人の王妃がいた。
重婚は禁止されている国だが、王にだけは二人の王妃を娶ることが許されているのだ。
しかし現在、第一王妃のマーディアとその長女であるラファエラは亡くなっている。したがって現在のレイナルド王の妻は、第二王妃のヒルデ・ラウ・バルフォア一人である。
そのヒルデがやってきたのを見て、トラヴァスとアリシアは邪魔にならぬように並んで廊下の壁を背にし、敬礼のポーズをとった。
と、その時。
「あ、フリッツお兄様!」
逆側の廊下から、可愛らしい声が上がった。
トラヴァスが目だけで確認すると、亡くなった第一王妃の末娘である、ルナリアが駆けてきている。そして後ろにはルナリアの兄である、第二王子シウリスの姿があった。
シウリスの顔はあからさまに不機嫌で、空気の圧がトラヴァスを押し付けてくる。
(シウリス王子……これだけ間近で見るのは初めてだが、噂通り大きいな……)
シウリスは現在、アンナと同い年の十七歳だというのに、一九〇センチに達しているという長身だ。
しかもただヒョロ長いのではない。全身が猛獣のようなしなやかな筋肉で包まれているのが、服の上からでもわかる。
剣技も最強という噂があり、天才と叫ばれている人物だ。
(まったく隙のない動き……気迫、威厳、体躯……アリシア筆頭を超えるのは、俺でもアンナでもグレイでもなく、もしかすると……いや、もうすでに……?)
ゾクリ、とトラヴァスの背筋に怖気が走った。
ただ歩いている姿を一目見ただけでわかってしまうほどの、強さとオーラ。それがシウリスにはあった。トラヴァスは今まで、そんな相手に出会ったことがない。
瞬時に負けを認めてしまった自分を恥じ、未来に渡って勝てる気がしない想像を振り払う。
(シウリス様は王族だ。競う相手じゃない。間違うな)
自分にそう言い聞かせて、トラヴァスは威圧感に耐えて平静を保った。
しかし、王族同士はそうはいかない。
故第一王妃マーディア・リーン・バルフォアの忘形見、第二王子シウリスと第二王女ルナリア。
第二王妃ヒルデ・ラウ・バルフォアと、その子息である第一王子ルトガーと第三王子フリッツ。
ラウ系バルフォアとリーン系バルフォアが、廊下で勢揃いしてしまったのだ。
ラウ系とリーン系には派閥があり、騎士の間でも支持が分かれている。
トラヴァスは現在、どちらにもついてはいなかった。いずれは優勢の方、もしくは自分に利のある方につこうとは思っていたが。
王女ルナリアが第三王子のフリッツと嬉しそうに笑みを交わしている。まだ十二歳の王女と十三歳の王子が仲良くする姿は、とても愛らしい。
しかしその様子を、ヒルデが悪魔のような形相で睨みつけた。
「ルナリア。まずは挨拶が先ではなくて?」
「あ……も、申し訳ございません。王妃様におかれましては、ご機嫌麗しゅう……」
「やめろ、ルナリア」
ルナリアの挨拶を止めたのは、第二王子シウリスである。そのせいでヒルデの顔はより怒りを帯びていた。
「この顔が、麗しいわけないだろう」
「んまっ!」
鼻で笑うシウリスに、ヒルデは顔を真っ赤にさせている。蒸気まで出そうな顔だと思いながら、トラヴァスは無表情を貫いた。
「まったく、常識のない妹に、口の悪い兄だこと! 育ちが知れますわ!」
「育ち? 言っておくが俺たちの母は侯爵家だ。育ちが悪いのはそっちの方だろう」
クックと笑うシウリスに対し、ヒルデは悔しそうに歯ぎしりしている。
ヒルデは侯爵より二階級下の子爵の出である。
(ヒルデ様は美しさでレイナルド王に見初められ、入宮したと聞いているが……造形はともかく、見られた表情はしていないな)
美しくとも、性格が滲み出ている。トラヴァスは顔の造形よりも、表情を注視する方だ。トラヴァス本人は、無表情であるにも関わらず。
「シウお兄様、もうそのくらいに……」
「ふん、行くぞ。ルナリア」
「あ、待って……っ」
シウリスはラウ側を無視するようにズンズンと進み、ルナリアは急いで兄を追いかける。
すれ違う瞬間、ルナリアとフリッツはお互いに「ごめん」とでも言いたそうな瞳でコンタクトを取っていた。
「なんって、生意気なの……っ」
よほど悔しかったらしく、ヒルデはまだ息巻いている。
「気にすることはないさ、母上。シウリスの言うことなど放っておけばいい」
第一王子のルトガーがヒルデにそんな声をかけてはいるものの、瞳はヒルデと同じく怒りに満ちていた。
「アリシア」
「っは!」
急にヒルデが壁を背にして見ていただけの騎士に顔を向け、冷たい声でアリシアの名前を呼ぶ。
「ちょっと、今年入った新人の騎士を一人貸してくれないかしら。そうね、優秀な人物で……男がいいわ」
「どうなさいましたか? 外に出るための護衛が必要なら、護衛班に声をかけて参りますが」
「違うわよ。ちょっと……ね」
ヒルデに言われ、アリシアは仕方なくといった様子で、トラヴァスを伺うように見た。目が合ったトラヴァスは、コクリと合図する。今年入った優秀な騎士は、自分だという自覚があった。
「ヒルデ様、ここにいるトラヴァスが、今年の首席騎士です。戦闘に長けているだけでなく知力も備わっている、将来有望な若者です」
「まぁあ、そう……」
「第三軍団所属のトラヴァスと申します。ヒルデ様にお声をかけていただき、恐悦至極に存じます」
「うふふ」
ヒルデは先ほどまでとは一転、目を細ませると、トラヴァスの足先から顔立ちまでを舐めるように見ている。不快な気持ちを堪えながらいつもの無表情を貫き、なにを言われるのかと言葉を待った。
「あなた、仕事が終わったら私の部屋に来なさい」
「……は、かしこまりました」
王妃に逆らえるはずもなく、トラヴァスはそう答える。
承諾の言葉を得たヒルデは、上機嫌でルトガーとその場を離れていった。
後に残ったフリッツが、トラヴァスを見上げる。フリッツの銀灰色の瞳とトラヴァスのアイスブルーの瞳が重なった。
(……同情の、瞳か? なぜだ?)
しかしそれも一瞬で、フリッツはすぐにヒルデを追いかけるように行ってしまった。
三人の姿が見えなくなったところでアリシアがホッと息を吐き、申し訳なさそうにトラヴァスへと瞳だけ向ける。
「悪かったわね、トラヴァス。余計な仕事を増やしてしまったわ」
「筆頭のせいではありませんのでお気になさらず」
「恐らく、あなたをラウ派にするつもりでしょうね。レイナルド様がどういう基準で継承者を決めるかはわからないけど、ルトガー王子は二十歳になられたし、シウリス王子ももう十七だもの。フリッツ王子はまだ十三歳だけど、そろそろ継承者を考える頃に入ってるわ。その時のために、優秀な若者がほしいんでしょう」
(派閥争いと後継者争いか。いつかは巻き込まれるとは思っていたが、存外早かったな)
しかし、これは王族に近づくチャンスとも捉えられる。
悪いことばかりではない……と、この時のトラヴァスは思っていた。
「なにか困ったことがあったら言いなさい。相談にのってあげるわ」
「ありがとうございます。その時にはお願いいたします」
アリシアの言葉に幾分安堵しながら礼を言い、筆頭大将の背中を見送る。
(しかし一体、ヒルデ様の用とはなんなのだ……)
言いようのない胸騒ぎと共に、トラヴァスは終業後、ヒルデの部屋に向かった。
それから、トラヴァスの地獄の日々は始まったのである。