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101.出て行っちゃわない?

 子犬を保護した翌朝。

 グレイとアンナはこの日のロードワークは取りやめて、まずは騎士の詰め所に向かった。常駐する兵士に事情を話して届けを出す。

 今のところ、ラストアスハスキーが誘拐されるという案件は起こっておらず、ほっとすると同時に、飼い主はなにをしているのだろうかという疑問と怒りが湧き起こった。

 詰め所を出ると、グレイはそのまま出勤だ。

 腕の中から離れようとしない子犬を、グレイは仕方なく引き剥がす。

 きゅうきゅうと鳴く子犬に罪悪感を抱きながら、アンナへと渡してその頭を撫でた。


「仕方ないだろ……うちで飼ってやるわけにはいかないし、飼い主も心配してるだろうからな」


 きゅうん、と一点の曇りもない透き通った氷の瞳で、縋るようにグレイを見つめる子犬。さらに罪悪感が増すグレイだ。


「あ、もう、暴れないで」


 なんとかアンナの手から逃げ出そうとする子犬だが、もちろんアンナの力に敵うはずもなく、手の中でうにゃうにゃと動くに留まる。


「……頼めるか、アンナ」

「ええ、大丈夫よ。気にしないで行ってきて」

「……ああ。じゃあな、チビ」


 思いっきり後ろ髪を引かれながら王宮に向かうグレイに、アンナは苦笑する。

 子犬はぴーぴー泣いていたが、グレイの姿が見えなくなると、ウウッと唸るようにアンナを睨んだ。子犬なのでまったく怖くはなく、むしろアンナの目にはかわいく映っているが。


「そう唸らないで。ちゃんと飼い主の家を探してあげるから」


 いやだいやだと言わんばかりに手の中でうにゃうにょ動く子犬を連れて、アンナは有無を言わさず王都中を歩くことにした。

 結構な高級犬ということで、アンナは貴族地区のどこかだろうとあたりをつける。端から順に犬を飼っていないか、視覚と嗅覚で確認していく。

 しばらく探していると、目的と一致する家を探し出すことができた。思った通り、貴族の家だ。

 敷地は黒い鉄柵で囲われていて、母犬らしきラストアスハスキーと子犬たちが庭で遊んでいる。


「あなた、きっとここの子ね。すぐに返してあげるわ」


 そう話しかけると、いやだいやだと子犬は抜け出そうと体を振る。もちろん放しはしないアンナである。

 母犬がアンナたちに気づき、ワンワンと大きな声で吠えた。アンナがドアノッカーを鳴らす前に中から人が出てくる。


「どうしたの? 誰か来た?」


 庭の方から顔を出したのは中年の女性で、この家の主人の妻だ。

 母犬の視線にその夫人は気づき、「あら」と声を上げてやってくる。


「なにか御用かしら」

「私、サフィールストリート沿いに住んでいる、アンナと申します。こちらの子犬と思われるこの子が、私のパートナーについてきてしまったのでお連れしました」

「連れてこなくてもよかったのに……」


 夫人の発言に、アンナは思わずむっとする。普通はありがとうでしょうという言葉を、なんとか飲み込んで子犬を見せた。


「では、この子をお返しします」

「あなた、この犬を飼ってくれないの?」

「……は?」


 夫人の発言が理解できず、アンナは眉を寄せる。手の中では子犬が暴れ通しだ。


「あなたについてっちゃったのよね、この子」

「私ではなく、私のパートナーにです」

「じゃあいいじゃない。連れて帰って構わないわよ」


 あまりの夫人の言い草に、アンナはなにを言っているのかと顔を歪める。


「待ってください。困ります! 私もパートナーも軍で働いていますし、日中にお世話できる人なんていませんから!」

「あなたの家、貴族地区じゃない。お手伝いさんの一人くらい、雇っているでしょう?」

「私は貴族ではありませんし、人を一日中雇うほどの仕事もありません」

「あらぁ、困ったわねぇ」


 ぼんやりした夫人に、アンナは苛立ちを募らせた。


(困ったのはこっちよ。どうしてこの子を私たちに押し付けようとするのかしら)


 軍に籍を置いている以上、家で犬は飼えないとわかっている。急な戦闘で、何日も家を空けることも珍しくはない仕事だ。


「じゃあ、そういう仕事をしている人にお願いすればいいんじゃない?」


 夫人は鉄柵の向こうで、名案だとばかりに笑う。アンナはますます顔を顰めた。


「そういう仕事って……」

「犬の散歩やお世話をする仕事があるのよ。私が一筆書けば、枠を空けてくれるから紹介してあげるわ。いいドッグシッターなのよ。それくらいなら支払えるでしょう?」

「けど私たちは職業柄、家に帰らないこともありますし──」

「問題ないわ」


 アンナの言葉などちゃんと聞く様子もなく、夫人はふっと目を細める。


「子犬の間はちゃんと朝から晩まで面倒を見てくれるし、帰れる時に迎えに行けばいいわ。迎えに来なければ、そのまま預かってくれるのよ。まぁ、金額はその分張るけれどね。もう少し大きくなれば、外に繋げておいて食事と散歩だけ任せればいいの。それでこの子を飼えるでしょう?」

「………!」


 夫人の言葉に、アンナは声を詰まらせた。

 飼えないと頭から思ってしまっていたが、確かにそれならば。


(……飼えちゃうわ……)


 一度飼えると思ってしまうと、手の中でうねうねしている子犬へと、唐突な愛情が溢れ出してくる。


「でもうちには猫がいるし……」

「ラストアスハスキーは外で飼える犬種だし、きっと平気よ」

「え、ええっと……パートナーと相談してみます……」

「ぜひそうしてちょうだい。よかったわね」

「え?」


 夫人の視線が自分にないことに気づき、アンナは子犬を見下ろす。

 すると子犬は先ほどまで暴れていたのが嘘のように、大人しく抱かれていた。


「この子は自分の主人を、もう決めているのよ。ラストアスハスキーは賢い犬種なの。待ってて、今ドッグシッターの連絡先を書いてあげる」


 そうして受け取った連絡先と、返すはずだった子犬を連れて、アンナは家へと戻ってきてしまった。

 子犬はアンナの手から離れて、部屋を探索している。


「どうしよう……連れて帰ってきちゃったわ……グレイ、なんて言うかしら……」


 お昼は昨日のグレイの真似をして、ヤギのミルクと芋のペーストを伸ばしたものを子犬にあげた。

 撫でようとすると相変わらずウウウッと唸り声を上げたが、食事は残さず皿を空にしている。


(子犬を返した後は、魔石に魔法力を込めてもらいに行こうと思ってたけど……仕方ないわね)


 家に一匹置いて出かけるのも心配だ。結局アンナは武器辞典を読みながら、子犬と同じ空間で午後を過ごすのだった。

 切りのいいところまで読んだアンナは、グレイがいつ帰ってきてもいいように早めに夕食の準備を終わらせる。夕方五時が過ぎ、いつグレイが帰ってくるだろうと思った瞬間、玄関の扉は開いた。


「ただいま」

「グレイ。今日は早かったのね」

「ああ、気になってな。お、まだいたか」


 グレイが子犬を見て笑った。まだ五時十分だ。定時に仕事を終わらせて急いで帰ってきたのだとわかる。

 子犬はとたとたとグレイに向かって、嬉しそうに尻尾を振った。

 グレイが撫でると、きゅうきゅうと甘えた声を上げていて、アンナは自分への態度の違いに苦笑する。


「結局、こいつの家は見つからなかったんだな」

「いいえ、見つかったんだけれど……」


 アンナは今朝あった出来事をグレイに話した。

 予想通り貴族の家だったが、なんだかんだと言いくるめられるように連れ帰ってきてしまったことを。

 紹介してもらったドッグシッターの名前と住所を書いた紙を、グレイに見せる。


「最初は、たくさん子どもが産まれたから面倒が見られなくて、私に押し付けようとしているのかと思ったのよ」

「いや、面倒が見られないなら売るっていう選択肢がある。ラストアスハスキーは希少種で人気だしな、引く手数多だ。売るって発想が、俺はあまり好きじゃないが」

「そう言われればそうね。じゃああの人は、この子をあなたの元へ行かせてあげたかったのかしら……」

「さぁな」


 そう言いながらグレイはドッグシッターの連絡先を返し、口の端を上げて子犬を撫でた。


「本当言うと、帰った時にまだいたらいいなと思ってたんだ。お前もそうだろ、イークス」

「イークス?」


 グレイに呼ばれたイークスは、きゃうきゃうと子犬らしいかわいい返事をして喜んでいる。

 そんな一人と一匹を見て、アンナは眉を下げて笑った。


「もう、名前まで決めてたの? 飼う気満々だったんじゃない」

「飯をあげた奴は、面倒を見るって決めてるんだ」

「だったらそう言ってくれればよかったのに」

「誘拐犯になるのは避けたかったしな。実際、俺たちだけで飼うには問題だらけだったろ。近所のドッグシッターを紹介してもらえるなんて思わなかったしな。ああいうのは会員制だったりして、人数制限もあるから利用が難しいんだ。いいところは特にな。かと言って質の悪いところに預けたくはないし、一般区の遠いところも毎日迎えに行くのは大変だ。けどそこなら問題ない」


 饒舌に喋ったグレイは、満足気にイークスと戯れている。しかし問題と言われると、大事なことがひとつあった。


「あなたがそういうなら大丈夫でしょうけど……でもディックはどうするの? 出て行っちゃわない?」

「まぁ、一階には降りて来なくなるだろうな……けどそれも少しの辛抱だ。半年もすれば、外飼いできるようになるからな。そうなれば、ディックも降りてくるようになる」


 アンナにとって、ディックはすでに家族だ。そしてもちろん、イークスもこれから家族となる。

 元々ディックは気まぐれで野良でもやっていけるが、それでも一階に降りて来ない日が続くとなると、寂しい。


「犬と猫って、仲良くできないの?」

「慣らし方次第だな。けどまずはこいつをしっかり躾けてからじゃないと、ディックは寄ってもこないぞ。上の方にキャットウォークを作ってもいいか? 同じ空間にいる方が、慣れるのも早いんだ」

「ええ、そうしましょう。ディックが降りて来られる空間を、作ってあげたいもの」


 アンナが快諾すると、グレイはイークスを抱いて立ち上がった。


「よし、じゃあ先にドッグシッターのところに行ってくるか。早速明日から世話にならないといけないしな」

「そうね!」


 そうしてアンナとグレイは、近くのドッグシッターのところへと契約に行った。

 契約を終えるとその足でイークスの生まれた家に行き、引き取りを決めたことを夫人に伝える。

 夫人は「そうなると思ったわ」と笑い、「困ったことがあったら言ってね」とまで言ってくれた。


 こうしてアンナたちは、念願だった犬を飼うことになったのだった。


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