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102.なににしようか悩んでたのよ

「おはようございます! イークスくんをお預かりにきました!」


 翌朝、ドッグシッターがやってきた。

 朝のロードワークに行きたいので、かなり早い時間だ。

 そんな条件でも、彼女は快諾して契約してくれた。

 サエクという、一見すると少年のような大人の女性だ。


「悪いな。昨日話した通り、俺以外への警戒心が強い犬なんだが」

「大丈夫です! 自分、慣れてますから!」


 言葉通り、サエクは慣れた様子でイークスを抱き上げる。

 イークスが暴れても、彼女はものともしていない。


「では、夕方五時以降、どちらかがお迎えに来るということで、お待ちしています! うちは夜九時までですので、それまでにお迎えに来られない場合は、こちらで一泊お預かりしますね」

「ええ。サエクさん、よろしくお願いします」


 前日の契約通りだ。グレイとアンナ、どちらか早く終わった方が迎えに行くことになっている。急な遠征になっても、追加料金は掛かるが、対応してくれる契約内容だ。


「ではお預かりします! 行くよー、イークスくん」


 イークスはきゅうんきゅうんとグレイを恋しがり、グレイは最後にひと撫でしてなんとか手を離した。

 サエクが出て行った後、グレイはロードワークに行く準備をしながらハッと息を吐く。そんなグレイを見たアンナは、ふふっと笑みが漏れた。


「幼児を預ける母親みたいね」

「一緒に暮らせるのは嬉しいが……毎朝あんな声で鳴かれるのかと思うと、ちょっとかわいそうになるな」

「大丈夫よ、すぐ慣れるわ。預けられたら、いくら嫌でもその先でやっていくしかないんだもの」


 当然のように言い放ったアンナを見て、グレイは口を噤む。

 アンナは生まれてたった数ヶ月で、リーン家に預けられていたのだ。

 アンナが物心ついた時には、リーン家に行くことは当たり前になっていたが、母親と過ごしたいと思うことも当然あった。特にシウリスが王宮や公務に出かけていていない日は、預けられたくないというわがままを言いたかったことは何度もある。

 けれどアンナは母を困らせたくはなかったし、どんな状況でもなんとかなるし乗り切るしかないこともわかっていた。だからイークスに関しても、どうしようもないと割り切っている。

 それでもグレイからすれば、アンナは幼い頃からずっと我慢を重ねていたという認識であった。両親を亡くしたグレイも色々とつらいことがあり、我慢してきたのは同じだ。しかしグレイは、アンナの存在を支えにして心のバランスを取ってきた男である。

 なにもバランスを取るものがなかったアンナと比べると、グレイは精神的に随分と安定して成長できていた。

 未だに時折寂しさを見せるアンナ。過去を思い出してはいないだろうかと心配し、グレイはそっと黒髪を撫でた。


「なぁに、グレイ」

「いや……そうだな。毎日預けられてたら、慣れるしかないよな」

「サエクさんのところが快適で、今度は帰りたくないってイークスはだだを捏ねるかもしれないわよ?」

「それはそれで困るが」


 眉を寄せたグレイに、アンナはふふっと目を細める。


「冗談よ、あるわけないじゃない。あの子は、あなたが一番なんだから。モテモテよね、グレイって」

「まぁ、犬猫にだけな」

「あら、私にもモテてるでしょう?」


 ちょんっと腕に頬を乗せたアンナが、上目遣いでグレイを見る。かわいい婚約者に、グレイは困った顔を見せた。


「これ以上俺を惚れさせるなよ……」

「え? 私は今、あなたに惚れているって話をしてたのよ?」


 アンナは眉を下げて笑い、グレイの腕から離れると、長くなった髪を高く結い上げた。

 ロードワークに行く準備は万端だ。アンナはグレイと共に家を出る。

 出てきたばかりの朝日を浴びながら、二人は王都を駆け抜けた。後ろからは、この時間にロードワークに行くと知っている猫たちが、いつものように追いかけてきている。


「ねぇ、グレイ」

「なんだ?」

「もう少しイークスが大きくなったら、散歩を兼ねて一緒にロードワークに行けるわ。それまでの辛抱よ」

「あいつが俺たちについて来れるまで、どのくらい掛かるかな」

「きっとすぐだわ」


 アンナの言葉と気遣いに、グレイは笑って。

 二人は朝焼けの街を駆けていった。

 その後ろに、何匹もの猫を引き連れて。




 ***




 四月に入り、カールが入軍した。

 カールの配属先は、第二軍団のゼオ隊だ。

 トラヴァスは第三軍団のデゴラ隊、グレイは第五軍団のクロバース隊、アンナは第六軍団のスウェル隊のため、それぞれ見事に別の隊に配属されたことになる。

 カールもアンナと同じように、班長からのスタートを切った。

 筆頭大将アリシアは、『豊作の年って続くのよねぇ』とほくほくしている。

 皆に追いつこうと、がむしゃらに頑張るカールを見て、アンナたちも負けられないと高みを目指す。


 そんな忙しい毎日を過ごしていたある日、アンナは花屋である苗を見つけた。


「どうした、アンナ」


 この日は日曜で、一緒に出かけていたグレイがイークスを抱っこしながら、アンナを気にかける。


「ストレアラベンダー? 初めて聞く名前ね」


 花屋の棚に並んだ苗には、〝ストレアラベンダー〟の品種名が書かれてある。

 鮮やかな緑色の葉がきれいに整っていて、小さな茂みのようだ。細長い茎がしっかりしていて、葉の先端は少し丸みを帯びているけれど、全体的に少しザラっとした質感。まだ花はついていないが、これから咲くであろう紫色の花が想像できる、引き締まった綺麗な苗だった。

 アンナがじっと苗を観察していると、中から店の人が愛想よく出てきて説明してくれる。


「これは、最近出回り始めた新品種なんですよ。適切な手入れをすれば、六月ごろから秋の終わりまで、長く楽しめるラベンダーです。香りもとてもよくて、紫色のかわいいお花ですよ」

「そんなに長く? 私、ラベンダーの香り、好きなのよね!」


 急に目をキラキラさせたアンナに、グレイはふっと目を細める。


「買うか? あの鉢植えも、空っぽのまんまだしな」

「そうなのよね、なににしようか悩んでたのよ。あの鉢にラベンダーを植えたら、きっと素敵だと思うんだけど……」

「どうした?」


 さっきまで輝かせていた瞳を一転させるアンナに、グレイは眉を寄せる。


「確か、犬や猫にはラベンダーって毒じゃなかったかしら」


 チラリとグレイの抱くイークスをアンナは見た。


「なんだ、そんなことか」

「なんだって、もしディックやイークスになにかあったらどうするの?」

「食わなきゃ平気だろ。アンナの部屋に飾る分には問題ない。ディックはアンナの部屋には行かないし、高いところに置いておけば万一イークスが入っても届かないぞ」


 その言葉を聞いて、グレイを見上げていたアンナの頬がふんわりと喜びで紅潮していく。


「じゃあ、買ってもいい!?」

「もちろんだ、買って帰ろう。俺もあの鉢植えを使ってくれるのは嬉しいしな」

「ありがとう、グレイ!」


 子どものように無邪気に喜ぶアンナを見て、グレイの顔に笑みが漏れる。

 アンナは嬉々として苗と水捌けのいい土を買い、家に帰るとさっそく鉢に植え替えた。

 そんな作業をしているアンナの姿を見るだけで、グレイの心は溢れるような幸せに包まれていく。


「ふふ、これでいいわ。六月が楽しみね!」

「そうだな」

「グレイったら本当にそう思ってる?」

「思ってるぞ」

「もう」


 あまり顔の変わらないグレイに呆れたように笑って、アンナは鉢を持ち上げる。


(俺が楽しみなのは、咲いて喜ぶアンナの顔の方だけどな)


 完成したラベンダーの鉢植えを見て幸せそうに微笑むアンナを、グレイはイークスと共に見るのだった。


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