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104.私には触らせないつもり?

 外ではグレイとカールが模擬剣で戦い始めた。

 ガンッという剣のぶつかり合う音が家の中まで届いてくる。

 アンナは食事を前にテーブルに座ったまま、戦う二人が気になって目の端に入れた。


「大丈夫だ、アンナ。二人とも怪我などせんさ。あれはじゃれあっているだけに過ぎん」

「けど……カールは怒ってたわよね?」

「一瞬な。グレイがわざと怒らせて、こうなるようにしむけたのだろう」


 トラヴァスの考察がまったく理解できず、アンナは首を捻らせた。


「わざとって……どうして?」


 トラヴァスは取り合いする相手がいなくなったため、さっきまでとは一転してゆっくりと上品に食べ進める。

 そんな美しい所作を見ながら、アンナは疑問の目を向けた。


「カールはアンナに、困ったことはないと言ってはいたがな……本当のところは、ストレスが溜まっているのだろう」


 アンナがどうかと聞いた時には、やりがいがあると言っていたカールだ。

 ストレスが溜まっているようには見えなかったと、アンナは顔を歪める。


「なら素直に言ってくれればよかったのに……」

「そう言ってやるな。カールにもカールなりのプライドがある。特にあいつは年のせいで出だしが俺たちより遅れているからな。追いつかなければというプレッシャーだって感じているだろう。特にグレイとアンナは、普通じゃない出世速度だ。気にするなとは俺も言っているのだが」


 カールを心配しているトラヴァスを見て、アンナは「仲がいいのね」とくすりと笑ったあと、少し落ち込んだ。


「私はカールのこと、なんにもわかってあげられていなかったわ」

「それも気に病む必要はない。あいつもアンナに気を遣われるのは嫌だろう。俺がカールの状態をわかってやれたのは、宿舎に帰った後、いつもどちらかの部屋で話をしているからに過ぎんからな」

「毎日?」

「ああ、ほぼ毎日だ」

「本当に仲がいいのね。確かにそれは気づいてもおかしくはないわ」


 柔らかく微笑むアンナを見て、トラヴァスはそっと目を細めた。

 けれどアンナはすぐに首を傾げる。


「けど、グレイもカールの状態に気づいたってことよね?」

「そうなる。グレイは犬の気持ちに気づくのが得意だろう。カールは犬のようなところがあるからな」


 グレイがカールの気持ちに気づいた理由の考察が面白くて、アンナは思わず笑った。


「ふふっ。カールが聞いたら怒りそうだけど、確かにそうね。だからカールはあんなにグレイに懐いてるんだわ」


 納得したアンナに、トラヴァスは笑みを見せる。珍しいその笑顔にアンナも微笑み、二人の間に柔らかな空気が流れた。

 イークスは家の中から庭を見て、二人のじゃれあいを楽しんでいる。

 食事を進めたアンナとトラヴァスは、すべてを食べ終えてナイフとフォークを置いた。


「ごちそうさま。ありがとう、アンナ。とてもおいしかった」

「本当? 嬉しいわ」

「グレイは幸せ者だな。アンナの料理が食べられるのだから」

「逆よ、私が幸せ者なの。最高の人と出会えたんだもの」

「……っふ、そうだな。さて、あの二人が遊んでいる間に片付けてしまおう」


 トラヴァスは立ち上がり、食器を重ねて流しへと持っていく。

 いつもはグレイと二人でする作業を、トラヴァスが洗い、アンナが拭き上げる役で分担した。

 水源は裏山の湧き水だ。高低差の重力式なので、コックを捻るだけで水は出てくる。

 王宮から貴族地区、そして一般地区へと、気づかぬほどの緩やかな下り坂になっていて、水道は王都全域を網羅している。ストレイア王国自慢の水路だ。

 そんな水できれいに皿を洗ったトラヴァスは、次々にアンナへと渡していく。


「ところで今日は、どうしていきなり俺たちを家に呼んだのだ? なにか重要な話でもあったのではないのか?」


 最後の一枚を洗い上げたトラヴァスは、コックを締めて水を止めた。

 アンナはその一枚を受け取り、サッと拭き上げる。


「違うのよ。ちょっと見てほしいものがあっただけ。大したことじゃないの」

「気になるのだが」

「ふふ、持ってくるわ」


 そう言うと、アンナは二階に行ってすぐに戻ってきた。その手に、植木鉢を持って。

 満面の笑みを浮かべているアンナを見て、トラヴァスもふっと目を細める。


「ラベンダーか。しかもこれは、ストレアという品種だろう」

「さすがトラヴァス、なんでもよく知ってるわね。きれいに咲いたから、見てもらいたくて。香りもいいのよ」

「どれ」


 アンナの手にピッタリフィットする丸くてかわいい植木鉢から、紫色の可憐なラべンダーが何本も花を咲かせている。

 トラヴァスはアンナに近づくと、少し腰を曲げてその香りを嗅いだ。

 柔らかな甘さとほのかな苦みが入り混じった、どこか懐かしい香り。乾いた草のような爽やかさもあり、心が安らぐのをトラヴァスは感じた。


「どう?」

「ああ、落ち着く香りだな」

「ふふっ、そうでしょう」


 そう言って顔を上げると、トラヴァスの思った以上にアンナが目の前にいた。

 嬉しそうに微笑む顔に釘付けとなったトラヴァスの手は、勝手にアンナの頬に触れようと動いていく。


「トラヴァス?」


 小首を傾げるアンナ。トラヴァスはハッとして、アンナの肩をさっと払った。


「なぁに?」

「……ごみがついていたのでな」

「あら、ありがとう。……イークス?」


 外を見ていたイークスがとててっとやってきて、ウウウッとトラヴァスに向かって唸り始める。

 アンナは慌ててイークスを嗜めた。


「こら、イークス! どうしたの、いきなり」


 わうっと一声上げたイークスは、急にアンナの足元にまとわりつく。

 イークスは自分の顔をアンナの足に擦り付けていて、アンナは目を瞬かせた。こんなことをされたのは初めてだ。

 アンナに対して唸ることはなくなっていたものの、自分から寄ってくることは今までなかった。


「ふ。まるでアンナは自分のものだと主張しているようだな」

「今までそんなそぶり、まったくなかったのに……」


 アンナは植木鉢をテーブルに置き、イークスに触れようとしたが、その時にはさっと顔を背けて触らせないイークスである。


「もうっ、自分からは擦り寄ってきたくせに、私には触らせないつもり?」


 ぷんっと頬を膨らませて腰に手を当てるアンナに、イークスは生意気にも素知らぬ顔をしている。


「すまんなアンナ、ちょっと」

「え?」


 振り向いた先には、トラヴァスの左手。

 水仕事を終えてひんやりとした彼の手が、アンナの頬に優しく触れる。


「トラヴァス?」


 アンナの見上げる先には、トラヴァスが目だけで微笑んでいて。

 なにをしているのかと首を傾げた瞬間、イークスがトラヴァスに向かって唸り始めた。


「ふむ、よく訓練されている」


 さっとトラヴァスは手を引き。イークスを遥か上から見下ろす。


「訓練? なんのこと? お手くらいしかしてないと思うけれど……」

「いいや、気にしてくれるな。おや、本格的に嫌われてしまったな」


 姐さんは俺のモンだと言わんばかりにイークスは睨み上げていて、トラヴァスは苦笑した。


「すまん、もうしはしない」


 トラヴァスがアンナから離れると、イークスはすぐさまアンナの足元で自分の体臭を擦り付けるようにうろつき始めた。

 イークスがなにをしたいのかわからず、呆れながらも少し嬉しいアンナだ。


「ふふ、もう、イークスったら。少しは心を許してくれたのかしら?」


 喜ぶアンナを見て。

 トラヴァスはほんの少し温まった己の左手を、ぎゅっと握っていた。

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