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18杯目『ブラック・ベルベット』

 今日の『Etoile』エトワールはとても賑わっていた。カウンター席は常連で埋まり、四人掛けのボックス席も相席の常連でいっぱいになっていた。


 人数だけではなく、店内もいつもの静かな雰囲気とは違い、人々の会話で少し騒々しいぐらいに騒がしかった。その中でも取り分け大きな声で会話を楽しんでいるのが、カウンター席に座る三人組。鉱山夫のガイヤ、オルテオ、マシューの三人だった。


 三人とは対照的に、ひとり静かにグラスを傾ける人物がいた。サクラの兄のサクリオンだ。彼はサクラの様子を確認するという名目で、度々酒を飲みに来ていた。意外とここが気にいっている様子だった。


 正直なところ、サクラは気が気でなかった。兄が職場にお客として来ているということもあるが、それよりも兄は典型的な貴族であることが心配だった。サクラ自体は別に庶民だとか平民だとか貴族だとか、あまり気にするような性格ではないが、兄はドーバー伯爵家の嫡男として貴族社会の流儀や教育を施されている。決して見下しているわけではないと思うが、平民と貴族の境界をきっちりと分ける人であった。そんな人がこんな場末の酒場の喧騒に何も思わないはずがないのだ。


 ひときわ大きな笑い声が辺りに響き渡る。勿論鉱山夫の三人組が発生源だ。サクラは兄の方をちらりと見て、爆発する前にこの三人をどうにか諫めようと声を掛けた。


「あの……お客様、もう少し声を小さく……他のお客様もいらっしゃいますので……」

「がははははは! ねーちゃんすまねえな! ここの酒がうまくてよ、笑いが止まらねえんだわ! がはははははは!」


 ああ、ダメだ……と、サクラは苦笑いをしながら思った。もう出来上がってる人には何を言っても無駄な事を、サクラはここで働きだして学んだのであった。

 そんな妹の様子を横目に見ていたサクリオンはバーテンダーを呼びつけた。


「おい、お前! 我が可愛い妹にあんな酔っ払いの話し相手などさせるな! 危ないではないか!」

「お客様、他のお客様への暴言はお止め下さい。これもバーテンダーの仕事の内ですので……」

「そうですよお兄様! これも仕事です! お兄様こそ何で居るんですか?」


 途中からサクラが話へと加わり、兄への文句を言う。


「私は……もちろんお前が心配で、変な男に絡まれていないかと……。後は……そう! 貴族としては平民の生活も知っておく必要があるしな! 特に酒場などは情報も集まる場所であるからな!」


 そんなことを言って、実はマスターのカクテルが飲みたくて来ているんじゃないかと、サクラは内心思っていた。自分を出しにされたようで複雑な心境であった。


 その時、また例の三人組が大きな声で笑い合う。他の常連客はしかたないと言った風にあまり気にはしていなかったが、ただ一人、サクリオンだけは目に見えてイライラを募らせていた。


「まったく! これだから平民は! 静かに酒を楽しむことすらできないのか! やはり育ちの悪さは態度に出るものだな!」


 その発言は少し声が大きかった。当然、渦中の三人組の耳にも入ってしまった。それに気付いた三人は席を離れ、グラス片手にサクリオンの近くへとやってきた。


「おうおう、貴族のにーちゃんや。何か文句でもあるんか?」

「言いたいことがあるなら直接言えや!」


 まるでチンピラのような悪態をつく三人であったが、そこはさすがの貴族様。怯むことなく堂々と三人の前に立ち、真っ向から相対した。


「品性のない粗野な平民が、高貴なる生まれである私に気安く話しかけないでもらおうか!」

「んだとコラァ!」


 まさに一触即発。周りの腕に覚えのある常連が、いざという時のために立ち上がり様子を見始めるが、その間をサクラが遮った。


「あの、みなさん落ち着いてください。ガイヤさん達も少しお酒を飲み過ぎて声が大きくなっちゃったんですよね? お兄様も貴族とか関係なく、相手に喧嘩を売るのはやめてください。みなさん楽しく、仲良く、お酒を楽しみましょう、ね?」


 両者の間を執り成すサクラの姿に、バーテンダーは成長を感じて嬉しく思ったが、件の両者はそんなことお構いなしに対立を続けていた。


「ふん! いくら我が妹の頼みとは言え、所詮貴族と平民が仲良く混じり合うことなどできないな!」

「けっ。こっちから願い下げだぜ。貴族の野郎は鼻持ちならないぜ! 一緒に酒は飲めねぇな!」


 サクラの奮闘虚しく、両者の溝は埋まらなかった。もう泣きそうになってサクラはバーテンダーの方へと助けを求める視線を向けた。が、当のバーテンダーはキョトンとした顔を、喧嘩をしている二人へと向けていた。


「貴族と平民が混ざり合わないと仰いましたか? そんな事はありませんよ。とてもよく混ざり合います。一度お試しになられますか?」


 これにはサクリオンも三人組も互いの顔を見合わせた。このバーテンダーが言うのだ。きっとカクテルの話なのであろうが、一体どういう事なのだろうか気になり始めていた。


「お前がそこまで言うならば、おそらく酒のことだろうが……もらってやってもいいぞ」

「けっ、貴族様は上から目線でいけねえぜ。にーちゃん俺らにも作ってくれや」


 両者からの了承を得ると、バーテンダーはにこりと微笑んだ。

まず、冷蔵庫から一本の瓶が取り出された。


「こちらはスタウト・ビールです。見ての通り色が濃く、黒っぽいのが特徴です。材料の大麦をローストして使用しているためこのような色合いになります。上面発酵エールの一種なので、ある意味こちらは労働者のための酒……と言えるでしょう」


 そう言うとスタウト・ビールをカウンターへと置き、もう一本の瓶を取り出した。


「こちらはシャンパンです。とある地方でしか作られない特産の発泡性葡萄酒になります。地域も限定されておりますし、材料の品種も限定されているので、他のスパークリングワインに比べると少々高額になります。まさに、お金持ちの貴族の酒……と言えるでしょう」


 シャンパンもカウンターへと置くと、ビール用の背の高い飲み口の広いグラスピルスナー・グラスが用意される。


「では、この二つのまったく異なったお酒が混ざり合ったら……素晴らしいと思いませんか?」

「にーちゃんそいつは無理な話だ」


 そうバーテンダーへと告げたのは三人組のリーダー格のガイヤだった。


「この前にーちゃんが作ってくれた『ボイラー・メーカー』のように泡が噴出しちまうし、二つの泡の出る酒が混ざるとは思えねえ」

「ふん、癪だがその通りだな。シャンパンのような高貴な酒が、安酒エールなどと混ざっても味の調和を崩すだけだ。『キール・ロワイヤル』のように高貴な酒同士でしかシャンパンは混ざらん!」


 いつものようにバーテンダーはにこりと笑いかけるとその片方ずつの手に、スタウト・ビールとシャンパンをそれぞれ持ち上げた。


「では、実際にやってみましょうか」


 そう言うと、グラスに向けてバーテンダーは両方の手に持った酒瓶を、同時に静かに傾けていった。一……二……三……。その時間、約三秒。グラスの中では漆黒のような黒いスタウト・ビールと黄金色のシャンパンが綺麗に混ざり合い、泡がグラスの縁ぎりぎりの表面張力で保たれていた。

 周囲からは「おぉ……」と歓声が沸く。特にガイヤは『ボイラー・メーカー』で異なる酒を入れると噴き出すことを知っているため、殊更にその技術の高さに驚いていた。


 この場にいる人間は誰もわかってはいなかったが、これはただ単に技術が高いで済まされることではなかった。大きさも注ぎ口の口径もそれぞれ違う瓶から、流量を同程度に調整して同時に両手で注ぐのはとても難しい。粘度も比重も違うアルコールを、均等に両手でこの速さで注げるバーテンダーなどそういない。ましてや、噴き溢さずにぎりぎりの量を入れるなどとは。原初のレシピでは同時に注ぐのだが、今では先にどちらかの酒を半分入れてから、もう一方の酒を注意深く入れても許されているし、こちらが主流の作り方ではあった。


「お待たせ致しました。『ブラック・ベルベット』でございます。ベルベットとは布地の一種の事。柔らかで手触りのいいベルベットのように、きめ細やかで舌触りのよいカクテルとなっております」


 差し出されたグラスはスタウト・ビールよりかは黒くなく、見るところによれば黄金色の輝きも垣間見える美しい酒だった。

 しかし、見た目や技術に惑わされているが、問題の焦点は味。果たして二つの酒が調和が取れて混ざり合っているのかが鍵であった。


 サクリオンとガイヤがそれぞれグラスを手にし、一口飲み始める。


 まず感じるのはやはりそのなめらかさだ。ベルベットの名を冠する事に引けを取らないほどの舌触りのよさ。まるで絹のように口の中へと誘われる。これはきめの細かな泡のお陰であろう。シャンパンだけでは泡が足りず、かといってビールだけでは野暮ったい泡となる。この二つがちょうど混ざり合った故の泡であった。

 次に来るのはスタウト・ビール特有のほろ苦さとその苦味に混ざる微かな甘さ。酸いも甘いも経験した大人のような味わい。そして強いコクとのど越し。スッキリとしたシャンパンの持ち味も生きており、後味は軽い。それぞれの特徴が見事に調和された上品な味だった。


「いかかでしょうか? ちゃんと混ざり合っていますでしょう? 個性的な酒同士でもこうして混ざり合い、それぞれの特徴を生かしてよりよいカクテルとなるのです。それは、人間だって同じことでございます。お互いをよく知り合えばきっと混ざり合うこともできるかと思いますよ」

「そうですよ! マスターもこう言ってるじゃないですか! ほら、ガイヤさんも、お兄様も右手を出してください! 仲直りの握手です!」


 半ば強引にサクラによって二人はその右手を握らされ、ぎこちなく握手をする。


「その……すまんかったな貴族のにーさん。これからはもう少し声を抑えるよう努力するわ……」

「……ふん。そうしてくれ。が、こちらも少々度が過ぎたようだ。謝罪させてもらう」


 サクラの強引さも、酒の素晴らしさもあったが、ここまでお膳立てをされては二人とも心変わりするしかなかった。たどたどしくではあるが、二人が謝罪し合うの見てサクラは今日一番の笑顔を見せたのであった。


(『ブラック・ベルベット』のカクテル言葉は『忘れないで』。それぞれの立場に居る人間が、今日の日のように手を取り合った日の事を是非『忘れないで』いてもらいたいものですね……)


 いつものようにグラスを磨きながら、バーテンダーは心の中でそう呟くのであった。




 それぞれの役職。それぞれの立場。それぞれの役割。人間は様々なしがらみに囚われております。衝突することも時にはあるかもしれません。そんな時こそ、バーで一杯の酒を酌み交わしてみてはいかがでしょうか。各々の本音が垣間見えるやもしれませんよ。


 ここは異世界のバー『Etoileエトワール』。またのご来店をお待ち致しております。



    ◇



『ブラック・ベルベット』

スタウト・ビール 1/2glass

シャンパン 1/2glass


スタウト・ビールとシャンパンをあらかじめよく冷やしておく。

シャンパン・グラス(フルート)の両サイドから同時に、

ビールとシャンパンを静かに注ぐ。

注ぐ際には、泡の盛り上がりが強いので注意する。


ナツメ社 「カクテル完全バイブル」より抜粋



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