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19杯目『エンジェル・キッス』

 その日訪れたのは遠方から来た旅人だった。世界を巡り見聞を広める旅をしているという。

 そんな旅人がグラスを傾けながら、酒の肴にとバーテンダーへ語りかけ始めた。


「実は……私は天使を見た事があるのです」

「天使様を見た事があるのですか! すごいですね!」


 サクラが興奮したように羨望の眼差しで旅人を見つめる。少し恥ずかしがりながらも旅人は話を続けた。


「この街を過ぎたところに、大きな森があるでしょう? これは深夜、その森の中を彷徨っていた時の話です。さすがに、夜中森を歩くのは危険なので何処かで夜を明かそうと、手頃な場所を探していました。すると、少し大きめの泉に辿り着くことができたんです。飲み水も確保できますし、やれ助かったと思ってそのほとりで休むことに致しました」


 旅人がグラスを傾ける。その話に興味津々のサクラは続きを今かと待ちかねていた。ついでに、連れ立って来店していた、冒険者のアレリオとリザードマンのスパローも、旅人の話に耳を傾けている様子だった。


「それで、うとうと眠ってしまっていた時、何やら声がするんです。その声は、透き通る様に清らかで、それでいて胸の奥底に深く響く深みを持つような美しい声でした。目を開けてみると、泉の水面上に人の影が浮かんでいるのです。それは、神々しい輝きを持った白く美しい翼を広げていて、穏やかな笑みを浮かべ軽やかに水面上を飛んでいる女性でした。あれはまさに天使でした。私はその姿に圧倒されて、ただ立ち尽くすしかできませんでした」


 旅人が再度グラスを傾ける。その話を想像したのか、サクラはまるで浮かれているように「素敵……」と呟いていた。


「私は世捨て人のように世界を巡って旅をしています。己の人生というものに不安や迷いを常に抱え込みながら生きています。私はこの出会いが、自分に何か重要な意味を示しているのではないかとそう感じました」


 そう言うと旅人はグラスをカウンターへと置いた。


「ふん、馬鹿馬鹿しい。天使なんているわけないだろ」


 それを聞いていた冒険者のアレリオが旅人に向かって口を挟んだ。どうやら彼はこの話を信じていないようだった。


「そもそも有翼種と見間違えたんじゃないか? ハーピーとかなら美しい声ってのもあり得るだろうよ」

「おや、信じてはいただけませんか?」

「当たり前だ。よしんば存在していたとしても、神の御使いの天使がなんでそんな森の中にいるんだよ」

「いや、あながち偽りとも言えぬぞ、アレリオ」


 そう釘を刺したのは、アレリオの隣で静かにグラスにストローを刺し込んでいたリザードマンのスパローだった。


「確かにあの森には神秘的な逸話が数多く存在する。曰く、迷い込んだ旅人を木々がまるで導くかのように揺れ動き、出口まで誘った。曰く、森の中でどこからともなく天使のような美しい歌声が響いてきた。昔からあそこはそういう不思議な現象が噂される場所なのだ」


 長命種であるスパローは古くからの逸話を見聞きしているのであろう。アレリオの知らないような話も知っている。そうスパローに言われてはアレリオも沈黙するしかなかった。


「もしかして……その森は天使様の住処なのではないでしょうか?」


 そんな雰囲気を察してか、サクラが場の空気を一新させる。


「森の中に天使が住んでるって言うのかい? さすがに、ないだろう。神殿とか天上の世界とか、そういうのに住んでるんじゃないのか?」


 確かに神々しくも美しい天使が、森の中で狩りなどに興じる姿など興醒めである。天上の世界で神々と共に果実や美酒を味わっている姿の方がよく似合う。


「あの森に住んでいるかは定かではありませんが、私が天使を見た事に間違いはありません。どちらにしろ、私はあの天使は自分の迷いを手放すきっかけを与えてくれたのではと思っています」


 旅人の話にその場にいたものは深く感銘を受けていた。それが本当の事であれ、作り話であれ関係なかった。そんな旅人へとスパローは告げた。


「お前のその純粋な心が天使を引き寄せたのかもしれないな」


 旅人は「そうであって欲しいですね」と言いながらグラスを呷った。


「俺は信じないぞ!」


 ただ一人だけ、アレリオだけはいつまでも強情を張っていた。


 そんな他愛もないやり取りをしていると、バーの重厚な扉が開く。


 やってきたのは一人の黒い修道服姿の尼僧シスター。こんな時間にシスターがやってくるのは珍しい。何とも不思議な雰囲気を纏っているように感じられた。

 シスターはカウンターへと着席するとサクラからおしぼりを受け取る。


「いらっしゃいませ。本日はいかが致しましょうか」

「……『エンジェル・キッス』を」

「承りました。少々お待ち下さい」


 バーテンダーが粛々と注文されたカクテルを用意していく。その姿を横目で見つつ、旅人は新たに訪れた客が気になっていた。どことなく見た事のあるような……そんな、既視感めいた感覚を感じていた。


「お待たせ致しました。『エンジェル・キッス』でございます」


 シスターの前に置かれたそれは、深い茶色の酒の上に、濃厚な白い層が乗っかったカクテルであった。さらにグラスの上にはピンに刺してある砂糖漬けされた桜桃マラスキーノ・チェリーが置かれていた。


 シスターは静かに無言のままそのカクテルに口をつけた。ほんの一瞬だけ、旅人は自分が見た天使の姿がシスターに重なったことに気付いた。どういうことであろうか。容姿が似ているわけでもない。不思議な雰囲気を纏ってはいるが、天使を見た時の感じとはまた違う様に思える。


 シスターはカクテルを飲み干すと、満足そうに微笑みながらバーを立ち去った。

 たった一瞬の出来事だった。だが、その場に来ていた客には十分な印象を抱かせるだけの時間だった。


「マスター。さっきの客の……『エンジェル・キッス』だっけか? あれはどういう酒なんだ?」


 興味本位からかアレリオがバーテンダーへと尋ねる。


「『エンジェル・キッス』はとても甘いデザートのようなカクテルでございます。その名が冠するのは『天使の口づけ』……。ちょうど天使のお話をされていましたね。どうですか、お試しになられますか?」


 アレリオと旅人は顔を見合わせると二人してこくんと頷いた。スパローだけは「俺はいい」と首を横に振った。


 バーテンダーは小型の脚付きグラスリキュール・グラスを用意し、カカオリキュールクレーム・ド・カカオを注ぐ。長細いスプーンバー・スプーンの背をグラスにつけた状態で生クリームがカカオリキュールクレーム・ド・カカオの上に層となるように、静かに慎重に注がれる。茶色の層と白い層の二種類の酒がくっきりと分かれてグラスの中に鎮座している。そこにカクテル・ピンに刺された砂糖漬けされた桜桃マラスキーノ・チェリーがグラスを横断するように乗せられて完成。


「お待たせ致しました。『エンジェル・キッス』でございます。まずは、ピンに刺さった砂糖漬けされた桜桃マラスキーノ・チェリーを先へとずらし、そのままグラスへと入れて引き上げてみてください」


 二人は言われた通り、ピンに刺さった果実を先端へとずらし、一度沈めてからまた引き上げた。すると、カクテルの中で白い層の中心が引き上げられた部分だけ穴となり、茶色の層が見えるようになった。そして、少しずつゆらゆらと形を変えていく。その形はどことなく唇のような形に見えた。


「それが『天使の口づけ』です。ちょっと唇には見えないかもしれませんね」


 二人はカクテルへと口をつける。まずは白い層の生クリームの味わいが口の中に広がる。甘味とまろやかさ。その後に茶色い層のチョコレートのような香りと甘味、そして割と強めのアルコールが感じられる。まるでチョコレートケーキを食べているかのようなそんな甘いカクテルだった。


「これは……とても甘くて美味しいですね。まさに甘くとろける様な『天使の口づけ』……」


 旅人はその味わいにとても感動していた。そして、それを飲んでいたあのシスターの事を思い出していた。「あれはもしかしたら本当の天使だったのかもしれない」、と。


 旅人は決意を固めた。もう一度、あの森へと戻ってみよう。もしかしたら、あのシスター……いや、天使に出会えるかもしれない。そうすればまた、己の人生の答えにまた一歩近づけるのではないか、と。そんな希望と新たな始まりを旅人は胸に抱いていた。


 『エンジェル・キッス』のカクテル言葉は『あなたに見惚れて……』。この旅人もまた、天使に見惚れてしまった一人なのかもしれない。



    ◇



「ところで、マスター。あのシスターのお客様ってよく来られますよね。いつもすぐに出て行っちゃいますけど」

「ああ、あの方はたぶんバーホッパーですね。一夜に何軒もの酒場を巡るお酒好きの人をそう呼ぶのです。一軒に付き一、二杯飲んでは次の店へと行くので、三十分も一つの店にはいないと思いますよ。なにか独特な雰囲気がありますよね」




 人生の岐路に立たされた時、人は大いに迷うことでしょう。光明が差すような出来事でもあればよいですが、そうそう都合のよい事は起きません。そんな時は、バーで一服してみませんか? 意外と答えなんてそういうところに転がっているのかもしれませんよ。


 ここは異世界のバー『Etoileエトワール』。またのご来店をお待ち致しております。



    ◇



『エンジェル・キッス』

クレーム・ド・カカオ 3/4glass

生クリーム 1/4glass

マラスキーノ・チェリー 1個


冷えたグラスにクレーム・ド・カカオを入れ、

バー・スプーンの背を伝う様に生クリームを静かに注ぎ、

グラス上にカクテル・ピンに刺したマラスキーノ・チェリーをのせる。


ナツメ社 「カクテル完全バイブル」より抜粋


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