目次
ブックマーク
応援する
4
コメント
シェア
通報

20杯目『スプモーニ』

「今日は、サクラさんに一杯のカクテルを作ってもらおうかと思っています」


 営業時間が終わり、店内が静けさに包まれる中、後片付けをしていたサクラにバーテンダーが声をかけた。その言葉にサクラは目を見開き驚きを隠せなかった。

 『Etoileエトワール』で働き始めてから数か月が過ぎようとしていたが、これまでカクテルを作る機会は一度もなかった。かき混ぜステアの練習をする際ですら、大きめなグラスミキシング・グラスには水しか入れられなかったのだ。


「えっ! 私が作ってもいいんですか!」


 カクテルを作れる日が来るなんて、夢にも思わなかった。サクラは喜びを隠せなかった。ようやくバーテンダーの真似事ではあるが、その仕事らしい仕事ができるのだ。これが喜ばずにいられるであろうか。


 バーテンダーはにこりと微笑むと、穏やかな声で語り始めた。


「カクテルの中にはゴールデンレシピというものが存在します。この組み合わせなら、少しくらい分量が違っても、作り方が多少粗くても、そこそこ美味しいものが誰にでも作れるというものです。例えばベースのお酒とレモン・ジュース、そしてホワイト・キュラソーの組み合わせですね。ジンで作れば『ホワイト・レディ』。ウォッカならば『バラライカ』。ラムだと『XYZ』。テキーラでしたら『マルガリータ』になります」


 そう話し終えると、バーテンダーは後ろの酒棚バックバーから一本の赤い液体の入った酒瓶を取り出し、カウンターの上へと静かに置いた。その瓶は、照明に映えて深い艶めく赤色を放っていた。


「ですが、今挙げたカクテルはすべて振り混ぜシェークが必要です。これには技術が求められ、味に大きな違いが生じます。ですので、本日はかき混ぜステアメインのゴールデンレシピ、『スプモーニ』を作って頂きます。そしてこちらが主材料の『カンパリ』。様々な材料から作られた、少し苦味のある混成酒リキュールとなっています。まずは私が作ってみますので、よく見ていて下さい」


 サクラは真剣な表情で頷き、バーテンダーの一挙一動を見逃すまいと目を凝らしていた。

 大きめのグラスタンブラー・グラスが用意され、中に透明な氷が敷き詰められる。そこに、先程の『カンパリ』、そして鮮やかな黄色いの果実飲料グレープフルーツ・ジュースがゆっくりと注がれた。長細いスプーンバー・スプーンがグラスに刺し込まれ、二、三回だけ軽くかき混ぜステア。細やかな動作のあと、最後にトニック・ウォーターがなみなみと注がれるフルアップ


「お待たせ致しました。『スプモーニ』でございます。カクテル言葉は『愛嬌』。作り方は先程ご覧頂いた通り、『カンパリ』とグレープフルーツ・ジュースを軽く混ぜ、トニック・ウォーターでなみなみと注ぐフルアップ。特別な技術は必要なく、比較的簡単に作れるカクテルとなっています」


 サクラの前に差し出されたのは、鮮やかで美しいオレンジがかった赤色のカクテルだった。彼女はそっとグラスを手に取り、表面に漂う炭酸の細かな泡をじっと見つめる。その後、意を決したように一口含んだ。


 まず広がったのは、グレープフルーツの爽やかな酸味。そして続けて訪れるのは、すっきりとした苦味とほのかな甘さの絶妙なバランスだった。アルコール分は控えめで、飲みやすく、どこか軽やかな印象を与える。その親しみやすい風味に、サクラは自然と微笑みを浮かべた。


「美味しいです! 飲みやすくて、お酒に弱い女性でもきっと楽しめますね!」


 サクラの声には喜びがにじんでおり、その様子を見てバーテンダーはにこりと微笑んだ。やがて、彼はカウンターの内側から出て、客が座る位置へとゆっくり移動する。


「さあ、次はサクラさんが作る番です」


 その言葉に、サクラの胸の鼓動は急に早まった。初めてのカクテル作りに挑む瞬間がついに来たのだ。いくらゴールデンレシピとはいえ、師匠の前で無様な姿を晒すわけにはいかない。

 緊張で震える指先を必死に抑えつつ、サクラは深呼吸を一つ。気を落ち着かせながら、カクテル作りの準備に取り掛かる。その目は真剣そのものだった。


 バーテンダーはいつものにこやかな笑顔を浮かべながら、サクラの姿を温かく見守っていた。


(『やってみせ、言って聞かせてさせてみて、誉めてやらねば人は動かじ』……か)


 サクラがぎこちない手つきで『スプモーニ』を作り始める。そのたどたどしい動作を、バーテンダーは微笑みながら見つめていた。その視線には、彼女の成長を信じる師の愛情と期待が込められているようだった。


「お待たせ致しました! こちら『スプモーニ』になります!」


 サクラは鮮やかなオレンジがかった赤色のカクテル『スプモーニ』をバーテンダーの前に差し出した。そのカクテルは一見、バーテンダーが作ったものとほとんど変わりがないように見える。


 バーテンダーはグラスをじっと見つめ、落ち着いた声で一言言った。


「いただきます」


 彼はゆっくりとグラスに口をつけ、カクテルの味を確かめるように一口飲んだ。

 味わいはほとんど遜色ない。グレープフルーツの酸味とカンパリのほのかな苦味、トニック・ウォーターの爽やかさが程よく調和している。だが、わずかに過剰かき混ぜオーバーステア気味で、口当たりがやや水っぽくなっているのが分かる。それでも、全体としては大きな問題はなく、客に提供できるレベルではあった。


「うん、美味しいですよ。サクラさんも飲んで比べてみてください」


 バーテンダーが優しく促すと、サクラは緊張しながらも恐る恐るグラスを手に取った。そして、その中身を一口含む。

 口の中に広がる味は、ほぼバーテンダーの作ったものと変わらない。多少の差異は感じられるが、それでも、自分の手で作り上げたカクテルがこうして完成したことに、サクラは感動を覚えた。


「ちゃんと美味しく飲めますね。さすがはゴールデンレシピ! ですね」


 思わず笑みを浮かべるサクラの様子に、バーテンダーも満足そうに頷いていた。彼の中には、次のステップへ進む準備がしっかり整ってるというという手応えが感じられていた。


 これで少しは自信がついただろうか、そう思っていたバーテンダーだったが、次の瞬間、思いもよらない言葉がサクラの口から飛び出した。


「これなら、次からは私が作ってお客さんに出しても平気ですね!」


 ぴくり、と。バーテンダーの眉が僅かに動く。それをサクラは気付かない。

 彼は穏やかな表情を保ちながら、少しトーンを落とした声で問い掛けた。


「サクラさん、私の作った物との違いがわかりますか?」

「えーと……? 違いですか……?」


 サクラは戸惑いながら、自分が作ったカクテルとバーテンダーが作ったカクテルを交互に口に運んだ。確かに違いは感じる。僅かながら味わいに差があるように思えた。だが、その違いが何に起因するのかと問われると、答えが浮かばない。


「……すいません、わからないです」


 サクラの声は小さく、緊張と悔しさが滲んでいた。


 バーテンダーは一瞬、黙り込み、それから深い息をついて口を開いた。


「……それがわからないなら、まだ人前では作ってはいけません。いいですか?」


 彼の声は穏やかだが、その中にしっかりとした芯がある。


「普通のお客様は、出されたその一杯が美味しいか不味いかをバーテンダーに教えてくれることはまずありません。不味ければ、ただ静かに席を立ち、二度とその店に来店されることはないでしょう。折角来て頂いたお客様に楽しんで頂けないのは、バーテンダーの責任です。だからこそ、提供するその一杯を、最高の物にしなければならないのです」


 言い終えた瞬間、バーテンダーはしまったと思った。つい、熱が入り、説教染みた口調になってしまったことに気付いたのだ。慌てて顔を上げてサクラの表情を確認する。

 そこには、少し潤んだ瞳のサクラが立っていた。彼女は何かを堪えるように、じっとカウンターを見つめている。その姿にバーテンダーの胸が少し痛んだが、それでも彼女の成長を信じる気持ちが揺らぐことはなかった。


「……わかりました。努力します……」


 サクラの声は静かだったが、その言葉の奥には決意が宿っていた。それが余計にバーテンダーの胸に痛みを残した。


 言い過ぎてしまった……。バーテンダーは心の中で後悔の念を抱えながら、ふとカウンター越しに見えるサクラの姿を盗み見る。人にものを教えるというのは、なんと難しいのだろうか。彼自信もまた、反省を迫られていた。


(『やってみせ、言って聞かせてさせてみて、誉めてやらねれば人は動かじ。

話し合い、耳を傾け承認し、任せてやらねば人は育たず。

やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば人は実らず』

まさにその通りですね……)


 古い言葉を思い浮かべながら、彼は深く息を吐いた。


 その後の時間、二人の間には重く気まずい空気が流れる。互いに言葉を交わすこともなく、カウンター越しの空間は静まり返っていた。その沈黙の中で、サクラはひそかに自分の甘さを噛みしめ、バーテンダーは未熟な指導者としての自らの姿を見つめ直していた。




 何気ない一言で人は傷つくモノです。それが本意でなかったとしても、言われた側にとっては関係がありません。そんな時はバーに行ってみませんか? お酒が絡めば素直に謝ることもできるやもしれませんよ。


 ここは異世界のバー『Etoileエトワール』。またのご来店をお待ち致しております。



    ◇



『スプモーニ』

カンパリ 30ml

グレープフルーツ・ジュース 45ml

トニック・ウォーター 適量


氷を入れたタンブラーにカンパリとグレープフルーツ・ジュースを注ぎステア。

さらに冷えたトニック・ウォーターで満たし、軽くステアする。


ナツメ社 「カクテル完全バイブル」より抜粋


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?