一人の色黒の男が店に入ってきた。がっしりとした体つきから、肉体労働に従事しているのが一目で分かる。
「いらっしゃいませ。こちらの席へどうぞ」
店主であるバーテンダーがカウンターの一角を指し示す。男は無言のままその指示に従い、カウンターの椅子に腰を下ろした。
「……邪魔するよ。実は、とある人からここを紹介されて来たんだ」
「どなたからのご紹介ですか? あ、こちら
サクラは笑顔を浮かべながら、おしぼりを男に手渡した。
「ああ、俺は今、商人の荷受けで下働きをしているんだが、その護衛をしていた冒険者と知り合ってな。女エルフの弓使いがここを勧めてくれたんだよ」
女エルフの弓使いと聞けば、この店の常連であるレティリカのことだろうか。
「たぶんレティリカさんですね! なんだか嬉しいですね!」
サクラは自分のことのように喜び、その無邪気な笑顔を男に向けた。
「それで……なんだが。実はここにくれば、故郷を思い出せる酒が飲めると聞いてきたんだ」
男はバーテンダーの目をじっと見つめ、低く静かな声で言った。
「故郷を……ですか。確かに当店では、多くのお客様にお楽しみいただけるよう、さまざまなカクテルをご用意しております。中には、お客様の郷愁を誘うようなカクテルもあるかもしれませんが……」
バーテンダーはその言葉を聞きながら、以前、レティリカが故郷の森を感じさせるカクテルを所望したことを思い出していた。
「そうか……なら、海を感じられる酒は作れるか?」
「こんな内陸の街で海ですか? お客さん、海の出身なんですか? けっこう遠いと思うんですけど……」
サクラの言葉から、この街が内陸部に位置しているのは明らかだ。潮の香りは全くなく、高台から街を見下ろせば、四方には地平線が広がるだけ。そのため、海が遠いことはバーテンダーにも理解できていた。ただし、地図を見て具体的な地理を把握したわけではないため、正確な位置まではわからなかった。
「元々は……な。実は俺は船乗りだったんだ。まあ、下っ端の下っ端でさ。荷下ろししたり、甲板の掃除をしたり……。要するに下積み仕事ばかりだ」
「船乗りさんですか! 素敵ですね! 私、海を見たことがないんですよ。でも、どうしてそんな人がこんな内陸の街にいるんですか?」
サクラが目を輝かせてそう言うと、男は罰が悪そうに目をそらし、少し間を置いて口を開いた。
「その……恥ずかしい話だが、下積みの仕事があまりにも大変で……。毎日怒鳴られてばかりで、さすがに嫌気が差してな……。その……逃げ出してしまったんだ……」
最後の言葉は消え入りそうな小さな声で、男は言いづらそうに話を終えた。
なるほど。その色黒の肌は、航海中の日焼けによるものだったのだ。
「でもな、時々海が恋しくなるんだよ。あの荒々しくも美しい青い海がな。故郷なんかは……正直どうでもいいが、海だけはどうしようもなく恋しくなるんだ」
「……わかりました。海を思い出させるカクテルをお作り致します」
男はしばしバーテンダーの目を見つめた後、わずかに微笑んだ。
バーテンダーは
グラスの縁を、カットされた
その上から
「お待たせ致しました。『ソルティ・ドッグ』でございます。直訳すれば『しょっぱい犬』ですが、とある国のスラングで『甲板員』の事を指します。船上で甲板の清掃や、
差し出されたグラスには淡黄色の酒が注がれ、その縁には白い塩がぐるりと一周するように丁寧に付着していた。しかし、その見た目からは海を思い出させるような印象には見えなかった。
男はグラスを持ち上げ、ひと口飲んだ。その瞬間、男の目が大きく見開かれる。
まず感じるのは、グラスの縁に付けられた塩のしょっぱさ。そこに
一度口をつけた部分の塩はもう落ちている。しかし、再び同じところからひと口飲むと、今度は
しかし、それを見ていたサクラにはいまひとつ理解が追い付いていなかった。色合いは淡い黄色で、とても海の色とは似ても似つかない。では海の香りはどうだろう。潮っ気のある香りが漂うようなものは含まれていない。強いて言えば塩がかろうじて関係しているが、柑橘系のジュースが含まれているせいで香りも影を潜めてしまっているように思える。これのどこが海を思い出させるカクテルなのだろうか。
さすがに疑問を抑えきれず、サクラはバーテンダーの方を向き、素直に問いかけた。
「あの……このカクテルのどこが海を思い出させるカクテルなんですか?」
答えようとしたバーテンダーよりも早く、男が口を開いた。
「あんたは海を見たことがないんだったな? じゃあ、船に乗ったこともないよな?」
「はい、ないです」
サクラが答えると、男はグラスを静かに置き、口を開いた。
「遠洋を航海するとな、たまに水夫が病気になるんだよ。口から出血したり、手足が痛み出したり。そのうち全身を倦怠感が襲い、何もできなくなっちまう。それを解決するために、柑橘系の飲み物を常備しておいて、食事の時に飲ませるんだ。それで予防になる」
古来の大航海時代における遠洋航海で恐れられていたのが、この『壊血病』だった。それを防ぐため、ライムやレモンといった柑橘系のジュースが用いられていたのだ。船乗りにとって、この味は懐かしさを呼び起こすものだった。
「それに、この塩……。否が応でも海のしょっぱさを思い出させやがる……。こいつは……紛れもなく、海を思い出させる酒だぜ」
だが、男の表情は少しも晴れていなかった。せっかく海を思い出せる酒に出会っても、それが良い思い出ばかりとは限らなかったのだ。
そんな男を見て、バーテンダーは静かに口を開いた。
「こんな物語があります。何日も釣果がなく、運に見放されたと感じていた老人が沖に出て、今までに出会ったことのないほどの巨大な魚と巡り合う話です。老人は魚と格闘を繰り広げ、何日もかけてやっとの思いでその魚を仕留めます。そして船縁に括り付けて港へ戻ろうとするのですが、その道中で鮫と何度も遭遇してしまうのです。老人は、仕留めた魚を鮫に食われないよう必死で戦いますが、結局ほとんどを食われてしまい、失意の中で港へ戻ることになります」
「そいつは……不運な話だな。だが、一体何の関係が……?」
男は眉をひそめながら問い返した。
「一度目の鮫を撃退した時、老人はこう呟きます。『しかし、人間は負けるようにはできていない。叩きのめされることはあっても、負けはしない』と。お客様は海が恋しいとおっしゃいました。きっと、まだ海に……船乗りに未練があるのではないかと思いました。下積みが嫌で逃げ出しても、それはまだ、負けてはいない。叩きのめされたのかもしれない。打ちのめされたのかもしれない。けれども、まだ負けてはいないのです」
バーテンダーの言葉を聞き、男は静かに視線を落とした。まるで自分の心を見透かされているように感じていた。
そうだ。海が恋しいのは、船が恋しいのと同じなのだ。確かに、仕事は辛かった。肉体的にも精神的にも苦しかった。しかし、水平線から昇るあの朝焼けだけは……あの世界で一番美しい景色だけは……心を満たしてくれる唯一の味方だった。その光景を忘れることはできない。そして、もし叶うなら、もう一度あの朝焼けを見たいと思う。
「ふっ……ははは、ふはははははははははは! とんだお節介な奴もいたもんだな!」
男は心の底から大笑いした。その目尻にはうっすらと涙が浮かんでいた。
「若輩者が生意気な事を言いました。どうかご容赦ください」
「いや、あんたは最高だよ! 俺も、今のままじゃいけないと思っていたところだ。もう一度、あの船上から見る朝焼けを拝んでみたい……。まだ、俺も負けてはいない。もう一度戦ってみるのも悪くないな! 俺はきっと、またあの朝焼けに会いに行ける。そして今度は、もう二度と逃げ出さない。どんなに厳しい波風が襲ってきても、俺はきっと乗り越えてみせる!」
そう語る男の声には、かつての自分では考えられなかったほどの力強さがあった。彼の背中には、再び海へと挑む覚悟がはっきりと刻み込まれているように見えた。男の顔には、もはや悲壮感や迷いの影はなかった。そこには、信念を宿した瞳と、力強い決意に満ちた表情が浮かんでいた。
男の言葉が静かに胸に響き、サクラは自分の中に押し寄せる感情に戸惑っていた。彼の語りの奥には、どうしようもなくこだわり続ける何かがあるのだと、サクラにもわかった。
それはただ単なる未練や郷愁ではなく、諦めきれない情熱のようなものだろう、サクラはそんな風に感じていた。自分には想像もつかない厳しい日々を彼は過ごしてきたのだ。それでも、『負けてはいない』というその言葉が、どれほど深い決意の下にあるのかを思うと、自分の胸にも熱い何かが灯った気がしたのであった。
嫌な事や苦しい事から逃げ出すのも悪くはありません。けれどもそれに負けてはいけません。どんなにつらくてもまた立ち上がる。そんなきっかけをお酒は生んでくれるのやもしれません。
ここは異世界のバー『
◇
『ソルティ・ドッグ』
ウォッカ 45ml
グレープフルーツ・ジュース 適量
塩 適量
グラスのエッジをレモンで塗らし、
平らな皿に広げた塩をつけてスノー・スタイルにする。
このグラスに氷を入れ、
ウォッカ、グレープフルーツ・ジュースを注ぎ入れステアする。
ナツメ社 「カクテル完全バイブル」より抜粋
引用:
角川文庫「老人と海」
作:アーネスト・ミラー・ヘミングウェイ
訳:越前敏弥