目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第12話 人魚の歌声

 大気の波が揺れている。

 いつも通り、私室のベッドに築かれた本の山に埋もれていたナデシコは、ふと察知した違和感に顔を上げた。

 ナデシコにとって未知の気配。けれど悪いものとは思わなかったし、何よりネオンが不審者の侵入を許すとは考えられない。そう考える程度には、ネオンのことを信頼していた。


「うん、ネオンがどうにかするでしょ」


 ナデシコはネオンにすべてを丸投げして読書に戻る。ペラペラ、サリサリとページをめくる音とメモを書きつける音だけが響く中に、扉を叩く音が入り込んだ。 


「ナデシコ、今いいかい?」

「ネオン? ええ、どうぞ」


 ネオンは許可を得るとナデシコの部屋の中へ入ってくる。ネオンの雰囲気は楽しげで気負ったところもない。ナデシコは、やっぱり妙なことが起きたわけではなさそうだと判断して、栞を手に取った。


「今、いいものが見れるんだ。ナデシコもおいで」

「いいもの?」


 ネオンは問いに答えず、にこにことしながらナデシコの手を取って廊下へ連れて行く。実際に目で見るまでのお楽しみということらしい。


 ネオンが向かったのは中庭を望むテラスだった。ネオンは指を伸ばして、太陽の明るさにまばたきをするナデシコへ、ここまで連れてきた理由――軽やかな足取りで踊るイウリィを指し示す。


「確かに、これはいいものね。楽しそう」

「だろう?」


 ナデシコは無意識に口元を緩めて、くるくるとスカートを翻しながら回るイウリィの姿を眺める。初めのうちはただ、ご機嫌なイウリィを微笑ましい気持ちで見ていただけだったのだが、そのうちに気が付いた。

 ついさっき、不意に感じた大気の揺れ。それがイウリィを中心に生まれていることに。


「……ねえ、ネオン。あの子は何をしているの?」

「やっぱりナデシコには分かるか。今、イウリィは歌っているらしいんだ。私たちには聞こえないけれどね」

「歌、ねえ」


 歌で船乗りを魅了する。歌で嵐を巻き起こす。

 人魚を語るうえで歌にまつわる逸話は欠かせない。とはいえイウリィに悪意があるはずもないし、ネオンの様子からしてこの光景はいつものことのようだ。

 ナデシコは警戒することなく、聞こえない歌について尋ねる。思い浮かべるのは、先日イウリィに見せられた、人魚として海の魂を慰撫する姿。


「あれは、機嫌が良いから歌っているだけ? それとも誰かに聞かせているの?」

「……お母上に聞かせているんだってさ」


 ネオンは物寂しげな横顔で言う。ナデシコもそう、と一言だけ返した。

 水底揺籃シェスカ。天導教に封印された母をいつか取り戻すのだとイウリィは言っていた。


 救うのではなく、取り戻す。その言い回しは今思うと、母の命を諦めているようでもある。


「イウリィが教えてくれたんだけどね、お母上とは心が繋がっているんだそうだ」

「心?」

「物心ついたときから、お母上の温かさをずっと感じていたんだってさ。普段はただ感じるだけなんだけど、歌が聞こえる瞬間があって、そういうときにイウリィも歌を返している。で、そのときのイウリィはとってもご機嫌だからああやって踊ってくれるんだ」

「そういうこと。だから母親のことを慕ってるのね」


 ナデシコの呟きに、ネオンは不思議そうな表情で首を傾げた。ナデシコはひらひらと手を振りながら、思わず口走っていた言葉の意図を伝える。


「イウリィが生まれたときにはもう封印されていたって聞いていたから、少し気になってたのよ。話したこともないだろうに、ってね」

「なるほど。……でも、そうだね。話したこともない親のことが気になる気持ちなら、少し分かるんだ」

「……昔の記憶が曖昧だからってこと?」


 今度はナデシコが尋ねる番だった。ネオンはときどき見せる曖昧な笑みで、家族のことを話し始める。


「いや、私の母は早くに亡くなっているんだ。それもあって姉上たちは私を守ってくれて、だから今でも頭が上がらないし、つい甘えてしまう。けれどね、眠る前に時々思うんだ。もしも母が亡くならなかったら、私はどうなっていたんだろうって」


 ナデシコは声に耳を傾けながら、ネオンの横顔を見つめる。声音は穏やかで、顔色も普段通り。


「私は王子なのか、王女なのか。私と姉上たちはどんな関係になっていたのか。姉上たちみたいに、私を守ろうとしてくれるのか」


 指先がかすかに震え始める。ほんの一瞬ではあったが、いつもは武人らしく常に整っている呼吸が乱れる。

 ナデシコはわざとらしく気だるげな空気を作ると、目を閉じて魔力を練った。


「私は……今みたいな、隠れるだけの曖昧なものにならずに、王族の務めを果たせたのか。そんなことを――んむっ!?」


 手の形に象られた空気がネオンの唇に押し当てられて、言葉を遮る。一目で分かるほどに乱れ始めた呼吸を制止する。

 ナデシコは腕を組み、ネオンと背中合わせになって体重を預けた。ナデシコには竜なら人型のときでも生えているはずの尻尾すらないから、身体をくっつけるのに何の問題もない。


「息すら苦しくなってたのに話し続けるんじゃないわよ、おバカ」

「……あ」


 ネオンは指摘に目を丸くすると、強張っていた肩から力を抜いて深呼吸をした。

 二度の深呼吸でネオンの息は完全に整って、背中越しにナデシコに伝わっていた震えも収まった。


「……ありがとう」

「どーも。まったく、世話の焼ける旦那さまだこと」

「ふふ、君が私のお嫁さんだったのは本当に幸運だったよ」


 いつもいつも、ネオンはそんな言葉を当然のように紡ぐ。ナデシコにとって厄介なのは、ネオンもイウリィも、お世辞で言っているわけではないと分かってしまうほど、まっすぐ正直な思いをぶつけてくること。


 ナデシコは生来の勝ち気で負けず嫌いで意地っ張りで、そのうえ長い時間を共に過ごしてきたオドゥがそっくりな気質だったものだから、その傾向に拍車がかかり――形容するなら、恥ずかしがり屋なひねくれ者だ。

 認められるのは嬉しい。けれど恥ずかしくて仕方ない。まっすぐな思いを受け入れるのがむずがゆくて、こそばゆくて、とにかく恥ずかしい。

 しかも長年の魔術研究で鍛えられた脳みそは勝手に思考を回転させて、ただでさえ対応に困っている感情を溢れさせてしまう。オドゥと暮らしていたときのように喧嘩で発散することもできないから、顔をぷいと逸らして耐えるしかない。


 イウリィはまだ歌い、踊っている。ナデシコは背中合わせのまま、波のようにたゆたう歌声に感覚を浸した。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?