ハルピュイアの王、暁のフレアの後継者であるエダ。
海の王、水底揺籃のシェスカに仕えていたアゥダーリー。
どちらとも、並みの狩人では手が出せないほどの大物だ。そんな二体を前にして、ネオンが考えるのは朦朧と横たわる『妻』の姿。
『断る。エダは俺の後継だぞ。エダを殺そうとするお前に力を貸してやる必要がどこにある?』
男性的なその声は、ネオンだけに聞こえるものだった。
ネオンは静かな笑顔を浮かべて、一歩ずつエダとアゥダーリーに近付いていく。
「君にしては頭が回ってないね、フレア。私が君の力を求めているのは殺すためじゃない。さっさと終わらせるためだ。――そもそも、あの魔物たちを殺すだけなら君の力なんて必要ないこと、私に殺された君自身が一番知っているだろう?」
独り言にしか聞こえないネオンの言葉。そして、納得を告げる舌打ちの音が響く。
暁のフレア。かつてネオンに討伐された悪魔は今も、意思と力をネオンの中に宿している。
『殺したら食い破るぞ』
「ありがと、助かるよ」
ネオンはそう言いながら、左手で顔の半分を覆った。
手が離れたあと、ネオンの緑眼に灯っていたのは暁のような橙色。暁の光へ真っ先に反応したのはエダだった。
「娘……まさか、その光は――」
「私がフレアの王冠を奪ったと、君は言っていたね。……私たちからすれば、その視点は違うと言わせてもらうよ。私とフレアは同意の上で契約を交わしたんだ。悪魔を封印する天導教に、君たちの王冠を渡さないために」
戦斧が振るわれる。その攻撃は今までのものとは桁外れの圧力で、エダとアゥダーリーを飲み込んでいく。
――その光景の中で、ナデシコは唇を噛みしめることしかできなかった。
視界が朦朧とする中でも治癒魔術をかけ続けていた甲斐あって、はっきりとした意識は戻りつつある。けれどただ一人倒れていることが、あまりにも悔しくて情けない。
砂と小石を握りこむ。頬を噛んで、全身に無理矢理力を入れる。口の中に鉄の味が広がって、ようやく立ち上がるだけの力が戻ってきた。
「っ、ぐぅ――あたしだって、竜なんだから」
エダも、アゥダーリーも、さらにはネオンも。誰もナデシコが立ち上がったことに気付いていない。
一度脱落したからこそ、ナデシコは全員の意思から外れていて、だから俯瞰できた。
ネオンの一撃でエダは撃ち落とされている。時間をおかなければ飛ぶこともできないだろう。けれど、余波を受けただけのアゥダーリーにはかろうじて力が残っているようだった。
そして、ナデシコは直感している。無から濁流を起こしたアゥダーリーの攻撃は、魔術と似通った理論で編まれているものだ、と。
「……あなたが姫様を地上に縛っているのは、幸か不幸か。さてどちらでしょうね」
エーテルが動く気配。ネオンも気付いているが、今しがたの負担が大きかったのか反応は遅く、回避が間に合うか怪しい。
消耗したアゥダーリーの攻撃だ。ネオンにも疲れが見えるとはいえ、直撃しても戦闘不能に追い込まれることはないだろう。
ナデシコもそんなことはとっくに理解している。理解しているからこそ、迷わず術を編んでいた。
「その人に、手ぇ出すんじゃないわよ!」
ナデシコを襲ったものと同じ、けれど勢いは衰えた濁流がネオンを狙い、障壁に阻まれた。
ぜぇ、はぁ、とナデシコは荒い息を吐き出す。アゥダーリーは力を使い果たしたようで、その場に崩れ落ちる。ネオンは目を丸くして、ぽつりと呟いていた。
「ナデシコ……」
「ネオン、アゥダーリーがもう一体の魔物ってこと?」
ナデシコの問いかけに、ネオンは気を取り直したようにかぶりを振った。いいや、とネオンが否定しようとした直前、アゥダーリー自身から答えがやってくる。
「おそらく、そうでしょうね。私は先ほどまで、本来の形で人の群れを引きつけていましたから」
「そうか。アゥダーリー、君は天導教から情報提供を受けた。それで間違いないかい?」
ネオンは戦斧を突きつけながら問いかける。アゥダーリーはくすりと笑って、口元に手を持っていった。
「ふふ。確信しているなら尋ねる必要はないでしょう?」
「さて、どうだろうね。想定外はいくらでも起こるものだから。――さて、エダ。フレアに念押しされているからね、私は君を殺すわけにはいかないんだけど、大人しく退いてくれるかい?」
「……貴様の話次第では」
エダは動けなくなってもなお、鋭い眼光でネオンを睨み付ける。
エダの青い瞳に宿っているのは怒りと戸惑い。仇敵のはずのネオンがフレアの力を振るった現実は受け入れがたく、けれど認めないわけにもいかなかった。
ネオンは頷いてナデシコの隣に向かうと、手近に転がっていた幹に腰掛ける。
「まず先に教えてほしい。空のハルピュイアと海のセルキー。どうして君たちが手を組んでいるんだい?」
「……利害の一致だ。私もフレア様を殺した貴様を侮るほど愚かではない」
「私も同じように、あなたを警戒してのこと。とても分かりやすい理由でございましょう?」
つい先ほどまで戦っていた人と魔物が、当たり前のように言葉を交わす光景。ナデシコはネオンの隣に座って話に耳を傾けながら、奇妙な心地を覚えていた。
ネオンはエダとアゥダーリーの主張に頷いて、話し始めようとする。そのとき、街の中から防壁を抜けて、走る人影がやってきた。
「ねえ、ネオン。誰かこっちに来てるわよ?」
「ん? 連絡役かな?」
真っ先に気付いたナデシコは、くいとネオンの裾を引っ張る。ただでさえ入り組んでいる話を魔物と共有しようというときだ。ネオンは困ったように振り返って、瞬間。驚きを隠すことなく目を見開いた。
「――イウリィ?」