イウリィは息を切らしながらも、足を止めることなくやってくる。ローブを目深に被っているのはヒレと鱗を隠すためだろう。
「ネオンさま、ナデシコさま!」
「イウリィ、どうしてここに!?」
ネオンの問いに、イウリィはぎゅっと唇を一文字にする。イウリィはローブを取り払い、深々と頭を下げると、うつむいたまま答えた。
「心配で、申し訳なくて、いてもたってもいられなくて。ごめんなさい、ネオンさま。ネオンさまは待っているようにとおっしゃっていたのに」
イウリィは顔を上げない。ネオンは立ち上がるとイウリィに近寄って、小さな頭を胸に抱えた。
「ごめんね、心配させて。この通り、荒事は終わったからもう大丈夫」
「……はい。ありがとうございます、ネオンさま」
イウリィの顔が上げられる。イウリィの視線はそのまま、負傷を押してひざまずくアゥダーリーに向けられた。
「あなたが、私を呼んでいたんですね?」
「はい、お初にお目にかかります。私はセルキーのアゥダーリー。シェスカ様にお仕えしておりました」
イウリィは驚きと悲しみの入り交じった瞳でアゥダーリーを見る。イウリィがアゥダーリーに向ける声はいつもと同じ甘やかなもので、それなのに誰に教わったわけでもない気品が宿っていた。
「顔を上げてください、アゥダーリー。私はイウリィ。お母様にイウリィと名付けてもらいました」
イウリィは促された通り、ナデシコが座る幹に腰掛ける。
エダもイウリィの姿とアゥダーリーの言葉でおおよそを察したようで、イウリィが入ることに異論を挟まなかった。
「さて、と。イウリィが来てくれたのはちょうど良かったかもしれない。何せ、私とフレアが契約したきっかけはイウリィなんだから」
「娘、まず聞かせろ。フレア様は今、どんな状態なのだ」
「肉体としては死んでいる。けれど意識は私の中の王冠にあるよ」
「……そうか」
エダはそれだけを呟いて、沈黙する。
ネオンは場を切り替えるように、一つ呼吸を吐き出してから、話を始めた。
「ナデシコ、王冠のことは知ってるかい?」
「ええ、竜にも受け継がれているから。力の器であり、支配者の証である概念――それと同じもので間違いない?」
「うん、その通り。それで、どうして私がハルピュイアの王冠を持っているかって話なんだけどね、簡単にまとめれば私とフレアにとって、これが一番都合が良い選択だったからなんだ」
ナデシコはじっと、ネオンの横顔を見つめる。
都合が良い。たったそれだけの理由で、人が持つはずのない力を預かれてしまう夫の顔を。
「……ナデシコさま」
小さな声がかけられる。イウリィは寂しげに、けれどいつものように微笑んでいた。
それだけで、イウリィが何を言いたいのかナデシコにも伝わる。ナデシコも同じように、イウリィへ微笑み返した。
「ええ、そうね」
ネオンは強すぎる。強すぎるから、自然と一人になってしまう。
なら、勝手についていくだけだ。隣に並べなくても、見ていることはできるから。
「人のあなたに王冠を託すことが、フレア殿にとっても都合がいい……?」
ネオンの言葉に、アゥダーリーは怪訝を隠さず呟いた。アゥダーリーは毛皮の奥で思考を巡らせて、数秒後。はっ、と顔を上げた視線の先にはイウリィがいた。
ネオンはアゥダーリーが言葉を発するより前に、答えを告げていく。
「天導教は悪魔を封印する。けれど、魔物に対して悪魔という認定を行うのも天導教だ。なら、君たちみたいに強大な魔物と悪魔の境目はどこにある?」
「それが王冠、ということか」
「少なくとも、私はそう考えている。エダ、現にね。私は君とフレアの力量はほとんど等しいと感じたよ」
ネオンは淡々と推測を語る。エダとアゥダーリーの瞳には、徐々に怒りが灯っていく。
「さすがに封印した悪魔に子供を産ませるなんて暴挙を働いた例はイウリィくらいのものだろうけれど――イウリィの素性を聞いて思ったんだ。天導教が悪魔を封印しているのは善意じゃないなって。で、フレアと戦って、王冠のことを知って、直感したよ。天導教の狙いは王冠だと」
ダン! と地面が揺れるほどの力で叩かれる。事実、地面には大きなヒビ割れができていた。アザラシの尾を生やしたアゥダーリーは唇から血を流して怒りに震えていた。
「……対立し、敗北した結果なら死も受け入れましょう。けれど、どこまで我らが慈母を辱めれば気が済む!」
「アゥダーリー、落ち着け」
「いいえ、黙っていられるものですか! 私たちは海で生きているだけ。それを侵してきたのは人間なのに――対話に向かったシェスカ様を不意打ちし、捕え、あまつさえ生き人形にするなど許せない!」
シェスカに仕えていたアゥダーリーにとって、二十年も昔の光景は今そこにあるのと何ら変わらないのだろう。それほどまでの激昂に、同盟者であるエダも声をかけられない。
怒り、震えるアゥダーリー。その手を静かに取ったのはイウリィだった。
「アゥダーリー。その様子だと、私のことはお母様が自分の意思で産んだと思っていたんですね?」
「……はい、人魚にはまれにある話ですから。――っ、けれどイウリィ様! だからと言って私たち海は、決してあなた様を否定いたしません! あなた様だって慈母の子なのですから!」
慌てながら紡がれる、必死で真摯な言葉。
イウリィはにこりと笑って、ヒレと鱗をきらめかせた。
「ありがとうございます、アゥダーリー。私を迎えに来てくれて。私を認めてくれて。でも、私は海には行けないんです」
「――なぜ、ですか? あの狩人に縛られているからですか?」
「いいえ、違いますよぅ。私が地上にいるのは天導教からお母様を取り戻すため。私がネオンさまのそばにいるのは、私が望んでいるから。私の喜びはネオンさまとナデシコさまの隣で過ごすことなんです」
一欠片も嘘のない、イウリィのまっすぐな言葉。
受け取ったアゥダーリーは面を伏せて、イウリィの手を握り返して、声を絞り出した。
「狩人、魔術師――いいえ。ネオン殿、ナデシコ殿。イウリィ様をどうか、お願いします」