中央線の電車に乗って東に向かい、新宿駅を経由し、四ツ谷駅で降りてから大きな道路を横断歩道で二重に越えてすぐのところ。
遍は、姉が通っている都心の名門私立大学、聖智大学の四谷キャンパスにやってきていた。
東京都心にある、100年以上前の大正時代初期に創立された歴史あるカトリック系の名門私立として名高いこの大学において、11月の初頭には数日間にわたり、聖=ソフィア祭という名で知られる学園祭が開かれている。
母親に言われた通り、電車内においては痴漢に遭わないように壁を背にして乗り、ホームに降りて駅を出たらガサツさが出ないよう女の子らしく慎ましげに道を歩き、そして目的地に至った遍は学園祭が催されているキャンパスの入り口前で立ち尽くす。
――お姉ちゃん、僕のこんな姿見たら、絶対に驚くよね。
そんなことを心に抱きながら遍は、丸いレンズの眼鏡をかけて、天然の長い黒髪を腰近くまで伸ばし、その前髪をおでこにおろした利発な大学生の姉、利愛のことを心に思い浮かべる。
遍の5歳年上の姉である利愛は今年の4月に19歳になったにもかかわらず、身長153センチメートルの遍よりも背が低く、脂肪のあまりついていない痩せ痩せとした体つきであり、服の下にはくびれがあって骨盤はそれなりに大きいという女性としては魅力的な腰回りだが胸は小さく、道を歩いているとよく中学生に間違われる小柄な成人女性の大学生であった。
そこで遍は、体の細さや腰回りの形は母親に似たけど、身長の低さは父親に似てしまったという姉の愚痴の混じった言葉を思い出す。
午前10時の一般開放時間開始を少し過ぎたところでキャンパスに到着した遍は、一歩、また一歩と学園祭が催されている大学の構内に入っていく。
中学二年生の遍が大学のキャンパス内に立ち入るのは、この春に姉がこの大学の学生になってから、いやそれどころか生まれてからすらも初めてのことであった。そして未到の世界であるキャンパスの中に入った遍の心の中は、未知の物事に出くわす不安があるような、でもなにか新しいことの起きそうな心が弾むような、不思議な気持ちで満たさていた。
それは、東京都心の自由な大学の空気だけでなく、冴えない男子として重苦しい気持ちで中学校に通っているいつもの日常では味わえない、美麗な少女としての解放感も多分に影響していたのであろう。
姉は、遍が母親の手引きで美少女へと化ける術を身に着けていることはまだ知らない。今朝も、姉が家を出かける前に弟が学園祭に遊びに行く、ということを伝えて待ち合わせ時間を取り決めたのみである。
今日、遍が一人で姉の通う大学の学園祭へと遊びに行き、姉にこの可愛らしく変身した弟の姿を示すというのは、母親の姉へのサプライズであり、また同時に遍へと課せられたミッションであった。
遍は、大学構内へと繋がる北口から入ってすぐ西へと向かったところにあるらしい広場にて、10時30分に姉と待ち合わせをするはずだったのだが、黄色いシリコンカバーケースに収まった愛用のスマートフォンの表示を見ると、まだ20分近く時間があることに気づく。
とりあえず、遍はこの大学の大学生や外から訪問者として来たような若い男女、そしてこの大学の卒業生だろうか幼い子供を連れた夫婦などが行き交う、いかにも都心にある大学の学園祭らしい賑やかな催しの空間をしばらく散策し、普段の冴えない日常を忘れて美少女姿のまま自由な雰囲気を楽しむことにした。
遍は、いつも通っている中学とは一味も二味も違う、開放された大学の自由な空気をその少女趣味的な仮装で彩った身に浴び、なんとなくワクワクとした心持で闊歩していた。
大学の構内を歩いているゴシックロリータ服姿の遍は、普段通っている中学校での生活とはあからさまに異なる注目を感じていた。
歩いている最中にすれ違う男性が、ほぼ間違いなく遍の方に視線を向けてくるのである。
遍に注目するのは男性だけでなく、数人集まった大学生だと思われる女子グループが少し離れたところから、遍の方を見て「あの女の子、カワイイー!」といった風に、どう考えても意図的に遍に聞こえる声量で黄色い声を上げるという場面もあった。
そして、遍はそのようないつもとは違う、大勢の見知らぬ人間が自分に羨望の感情をもって注目してくれているこの状況に、高揚と憂鬱さの入り混じった複雑な感情を抱いてた。
――いつもは、中学校の廊下でも教室でも、まるでそこにいない透明な存在になったかのように扱われるのに。
――こんな風に、美少女のような姿だったら、ただ歩くだけでこんなに色々な人が僕を見てくれるんだ。
そんな風に思いつつ、学園祭の催し物が開かれているこの場所で遍は、もう一歩を踏み出すことにした。
肩に紐をかけて腰近くにぶら下げているポシェットから、隣町のショッピングモールにて母親に買ってもらった女の子らしいお洒落な財布を取り出し、模擬店にて提供されているカップに入ったアイスクリンを買うことにしたのである。
カップアイスを買う際に遍はその変声期を経ていないボーイソプラノな綺麗な声で、母親に言われた通りお淑やかな口調を演じ、少女らしい言葉遣いで模擬店に掲示されたアイスクリンの種類を伝えて注文する。すると、そのアイスクリンをカップに入れる係の店員役の男子大学生は、本来なら2つの山を入れるはずのところをオマケして、3つ入れてくれたのである。
遍が、「あの、これ3つ入ってるんですけど、いいんですか?」と女の子らしい可愛らしい声で尋ねると、男子大学生は照れたような笑顔になりつつ「いーの、いーの! オマケだから!」と元気な声で返してきた。
その愛くるしい美少女に対する特別扱いに、近くにいた店員役の他の大学生も、並んでいた他の客も、特に咎めるようなことはしなかった。
遍は、見ず知らずの他人から特別扱いを受けたものの心境は複雑であった。
構内の生垣沿いに設置されている木でできた長椅子に座り、遍がそのカップから使い捨ての木製スプーンで冷たくも甘い氷菓子を掬って食べていると、心の中にこのような思いが浮かび上がる。
――外見が美少女ってだけで、こんなに周りの人が自然と優しくしてくれちゃうんだ。
――見た目がいいってだけで得られる恩恵、ただの男の子として暮らしてる普段の生活じゃ受けられるはずないよね。
そして、遍は無意識のうちにこんなことを、誰にも聞こえないようなごく小さな声で呟く。
「女の子ってズルいな……。いくら体が小さくっても、弱くっても、いろんな人に大切にされて愛されるんだもの……」
遍は、己の体が小さいことに愚痴っていた姉、利愛のことを思い出す。
――お姉ちゃんは、女だから体が小さくっても特に問題はないけど。
――男の僕にとっては、こんなに背が低く、頼りない体をしてるってのは致命的なんだよ。
――僕も、空手をやってる大諦みたいに大きくて丈夫な、逞しい男の体で生まれたかったな。
そこまで考えて、美少女のような外見をしているということで、大学生にオマケされて3つの山がカップに盛られていたアイスを食べきった遍は、なんとなく空を見上げた。
そこには晴れ渡る11月初頭の蒼穹たる空が大学のビル群の合間から覗いており、すべての人間の苦悩を意に介さぬように悠然と見下ろしていた。
「……どうして神様は、こんなに大勢の人が苦しむ、不平等な世界を創ったんだろ」
秋の空は高く、晴れ渡り、美少女の格好をしたひとりの少年の素朴な疑問に対する問いかけに、天はいつものように沈黙したままであった。