聖智大学四谷キャンパスに北口から入ってすぐ右手の方、校舎となっているビルとビルの間を抜けたところにある広場。そこが遍と姉との待ち合わせ場所であった。
その広場に立っていた遍は、ポシェットから取り出したスマートフォンを見て時刻を確認する。
スマートフォンの表面に現れたデジタル時計は10時28分、という時刻を示していた。
10時30分の待ち合わせ時間までもうすぐ、と遍が思ってから辺りを見回す。
遍はここで改めてこの広場に入り口が面している、四ツ谷駅からこの大学の北口まで歩いてくる際にずっと見えていた、大学の内外を区切る柵の内側に堂々と鎮座している、上部に十字架が飾られている円い形状の巨大な建造物に注意を払う。
――あれ、何の建物なんだろ?
そう思った遍は、もうじきこの広場にやってくるはずの姉に尋ねることにしようと決める。
遍はこの大学の関係者ではないので詳しくはないが、今年の四月にこの大学に入学した姉ならば教えてくれるだろう、そういう期待を込めてのことであった。
今、空に鳥の影が横切ったような気がした。
遍が空を見上げると、都会に生息するには余りにも白い、一羽の鳩がどこからともなく現れ、広場の片隅に舞い降りたようだった。
興味が湧いた遍は、構内を拙く歩いているその白い鳩をもっとよく見ようと壁際に歩きよる。
ところがそこで、後ろの方から大きな人影が三つ、近寄って遍の逃げ道を防ぐように囲んだ。
ゴシックロリータ服の美少女姿をした小さな体の遍が振り返ると、いかにもチャラっぽく髪を染めて金色のピアスをつけ、フラグレンスの香りを纏っているような、大学生か大学院生だかの男性が三名、声をかけてきた。
「ねー、君。初めて見る顔だけど、凄く可愛いねー」
「もしかして一人で学園祭来たの? この大学初めて?」
「よかったら、案内するから俺たちと一緒に回らない?」
美少女姿になってから遍が初めて遭遇した、男からのナンパであった。
「あ……あわわわわ……」
複数の男性から、考える暇もなく立て続けに声をかけられる、という未曽有の状況に遍はパニックになり、言葉にもならない呻き声のような音を口から漏らすしかなかった。
しかも、壁を背にして背の高い男三人に囲まれているような格好なので、逃走経路も塞がれている状況であった。
遍は、逃げることもできないまま焦り、表情を震えさせて、壁を背にしつつこんな言葉をやっとのことで口から絞り出す。
「あ、あの……僕、ここで人と待ち合わせしてるので……」
パニック状態になった遍がそう言うも、一人で学園祭に遊びに来ている目の前にいる美少女を、獲物を探して狙うハンターたる本能を持つ、若い男三人が逃すはずがなかった。
「へー、僕っ娘なんだ。可愛いーなー」
「その相手って君みたいな女の子? じゃあその子と俺たちとで一緒に回ろーよ」
「人数少ないより、多い方がぜってー楽しいって! ね! ね!」
――誰か助けて!
美少女にとっての気苦労である、男の性欲からくる情動をその小さい体に一身に向けられた遍は、無言でそのような救いを求める懇願をする。
その天への願いが通じたのか否か、悲痛な思いに応えてくれるかのような声がいきなり、男三人組の後ろの方からかけられてきた。
「ごめん、まったー?」
男のような、女のような、高くも低くもない中性的な声であった。
「すいません、ちょっと通してくれます? その子、ボクの知り合いなんです」
片手を掲げつつ複数の男の間を割り入るようにして、壁を背にした遍に近寄ってきたのは、男子としては長めの肩くらいまであるふわっとした髪を明るく茶色に染めた、ダボっとしたグレーのパーカーを着ている、背が高くてスマートな美少年であった。
「ごめんごめん、ヒカリちゃん。ちょっとばかり遅れちゃった。待たせてごめんね」
肩幅の広くない、釣り目がちのぱっちりした目を持つ眉目秀麗な面識のない少年が近づき、そんな覚えのない名前で呼びかけてくるので遍は無言のままその大きな瞳をぱちくりさせる。
そして、その美少年は遍の後ろに回ってその頼りない両肩を両手でつかみ、にこやかな口調で目の前のチャラい感じの男三人組に伝える。
「ごめんねー、キミたち。この女の子、これからボクとのデートの予約済みなんだ。だからちょっとナンパは諦めてくれる?」
男たちがそんな彼氏らしき美少年の発言を聞き、互いに顔を見合わせ何かを小声で会話する。
男たちの注意がそれた隙に、遍の後ろに立って肩を掴んだままのグレーのパーカーを着たそのスリムで長身の美少年は、低い位置にある遍の耳元に口を近づけ、目の前のナンパ男たちに聞こえないよう小声で囁いてきた。
「ここから逃がすから、話合わせて」
その小声で伝えられた言葉に、遍はこの初対面の男の子が自分を助けようとしてくれているのだと、ようやく理解する。
そしてゴスロリ美少女姿の遍は、演技として目の前のナンパ男三人組にその女の子らしい声で伝える。
「あ……そうなんです。僕、これから彼氏と学園祭デートでして……」
そんな嘘をついてから、遍は助けてくれた美少年の差し出した救いの手を取り、連れ立って歩き出す。
ゴシックロリータ服を着た黒髪ロング美少女のような遍と、上半身にグレーのパーカー、下半身に黒っぽいデニムジーンズを穿いた美少年が恋人同士のように手を繋ぎながら並んで歩き、その場から立ち去ってビルとビルの間にある道を西に抜けていくと、その方角から来たチャラい雰囲気のナンパ男三人組はそろって落胆したような顔つきになる。
「なんだよ、彼氏持ちかよー」
「しゃーねーよ、あんな可愛い娘に男がいねーわけねーって」
「次いこーぜ、次」
そんな不満げな言葉を次々と漏らしつつ三人組はどこかに消えていった。
遍が名前も知らない背の高い美少年とまるで恋人同士、または彼氏彼女同士のように手を繋ぎつつ校舎ビルの間の小路を抜けていくと、四谷キャンパス北口から入ってすぐのところにある、その下を四角くくり抜いたようなビルが見える大学構内の広めの通りに出た。
周囲には学園祭当日なので当然のごとく模擬店が立ち並び、お祭りを楽しむ学生の声が響いている。
大勢の人が行き交う場所に到達して、遍のことをヒカリと呼んだ見知らぬ少年は、音もなく自然な素振りで手をすっと離す。
そして、今しがた二人で抜けてきた小路を振り返って、遍に聞こえるくらいの大きさではあるものの小さく声を発する。
「ふぅ……ここまでくれば、大丈夫そうだね。緊張したぁ」
そんなことを、冷や汗をかいてそうな表情をしながら言う少年を、背の低い遍は見上げる。
遍が見る限り、ナンパされて困っている美少女を助ける場面において下心があったが故の行動、とは思えなかった。
身長150センチメートル台前半の背の低い遍は、その身長170センチメートル台半ば程度の、頭一つぶんくらい背の高い少年に対して顔を見上げて尋ねかける。
「あの……さっき僕のことヒカリって呼んでたのは……?」
すると、目の前のグレーのパーカーのフードを後ろに垂らした美少年は視線を下ろしながら、爽やかな面持ちで笑いながら柔和に遍に伝える。
「ああ、深く考えなくていいよ。ボクがついさっき咄嗟に思いついた偽名。ボクの名前がレイだから、日本語に翻訳してヒカリ」
――レイ、くん。
遍はその胸の中にある心臓が、心なしかトクン、と跳ねたような気がした。
もちろんこの時に男の娘である遍は、目の前にいる美少年が実はイケメン気質なボーイッシュ美少女、俗にいう漢女であることを知らなかった。
そしてこれが、遍とレイ、後には生涯に渡って忘れられない約束を交わすことになる、男の娘と漢女のボーイ・ミーツ・ガールと呼べる物語の始まりであった。