気になることは多かったけれど、父の言いつけを守って早めに就寝した莉緒だったが、夜半を過ぎた頃にギシギシという激しい家鳴りが聞こえて目が覚める。初めは地震かと思ったが、どうも違う。屋敷全体に何かが上から圧し掛かっているような、重みのある軋み音。
それと同時に感じる、嫌な気配。同じような感覚を以前に友達と肝試しのつもりで山の中の廃墟へ入った時にも感じた。あの時は、気軽に忍び込んだことを心底後悔した。莉緒のような視える側の人間は決して立ち入ってはいけなかった。
鳴り続ける家に不安になった莉緒は、式神達が眠っているはずの居間を覗いた。猫又と妖狐はそれぞれが座布団の上で丸まっていたが、耳や尻尾を動かして外の様子を伺っている最中だった。ミヤビが人化を解いて眠っている姿は、本当にただの大きな黒猫でしかない。マシンガントークで関西弁を喋るおばちゃんの正体だとは、まさか誰が見抜けるだろうか。
「これって……?」
「裏の方にタチの悪いのが集まってきてる。お嬢ちゃんが視たっていう何かが原因やろか?」
「ただの怨霊の類いだろうが、数は多いな」
怨霊というと、首無しの雛人形に仕込まれていたのと同じようなものだろうか。あの時は妖狐が踏んで退治してくれたが、今回は一体二体どころではないとムサシが眉間に皺を寄せている。しかも、何かに引き寄せられるかのように、その数は徐々に増えているのだという。
「丑三つ時にでもなったら、このボロ屋敷くらい簡単に圧し潰されてしまうやろうな。その前に何とかせなアカン」
「丑三つ時って、確か午前二時頃だったっけ? ……え、あと一時間しか無い?!」
壁掛けの時計を見上げて、莉緒は慌てた声を出す。怨霊に家をペシャンコにされるなんて、祓い屋としてあるまじきことだ。というか、家を壊されるなんて普通に困る。
こんな状況にも関わらず、和史が起きてくる気配はないのが驚きだ。蛇を見て酔いは完全に覚めたと言ってはいたけれど、身体にアルコールが入っているせいで家鳴りにも気付かず眠り続けているのだろう。酔っ払いは気楽で羨ましい。
まずは裏庭にある何かを確認する必要があると、莉緒達は懐中電灯を片手に外へ出る。今宵は月明かりで見通しが良いはずなのに、屋敷の周りだけが暗い霧で覆われているように霞んでいた。否、これは霧なんかじゃない。どこからともなく集まってきた怨霊達が屋敷を囲んで視界を遮っているのだ。
むっとくる嫌な気配に、莉緒はパジャマの袖口で口元を押さえる。
ムサシは目に付くものを片っ端から踏み倒していたが、その数にはキリが無い。先を走って紅葉の木によじ登った黒猫が、莉緒が紙人形を使って目撃したという括りつけられたものを発見したらしく、声を張り上げる。
「あったで、これや! 枝に木札が掛かってる」
「木のお札?」
「何やろな、これ? とりあえず下ろすわ」
そう言って、木へ括り付けられていた長細い板を咥えて、ミヤビが木の上からひらりと飛び降りた。
猫又が見つけて来たのは、長さ二十センチ、幅五センチほどの木の札。懐中電灯を照らしてみると、黒墨で書かれていたのは『お札製造所』という乱雑な筆文字。――藤倉家を揶揄した、ただの悪口だ。人形や蛇の死骸など、いい大人が行ってるとは疑いたくなる。嫌がらせのレベルがどう考えても小学生以下だ。
が、板をひっくり返した裏面を見て、莉緒は首を捻った。低レベルの悪口の裏に描かれているのは、祓い屋が護符に使うことの多い梵字。けれど、その形は莉緒が知っているものとは微妙に異なる。見たことがあるような無いような……。何を意味する文字なのかが分からず、困惑する。しばらく木札を上下したり別の角度から眺めたりして悩んでいたが、ハッと思い付いた。
「これって、反転文字じゃない? ほら、よく見たら除霊用のお札の文字が左右逆になってる」
ということはつまり……
「除霊の反対は、降霊もしくは集霊ということか。護符を反転させて真逆の効果を生み出すとは初めて聞いたな」
「うちも初耳や。そんなけったいなことする祓い屋、聞いたことがない」
もしかしたら、これを仕掛けた人だって、実際に機能するとは考えてなかったかもしれない。悪趣味な冗談や、脅しと揶揄いの意味合いを込めて、これを家人の目につく場所に設置しただけ。毒蛇の死骸のように単なる軽い嫌がらせのつもりで。
ただ現状、屋敷の周辺は怨霊の吹き溜まりのようなことになってしまっているが。
薄い板製の木札は軽く力を込めただけで、パキっと簡単に半分に割ることができた。これで集霊の効果は途絶えたはずだが、問題は既に集まってしまった怨霊達をどう祓うべきか。
肝心の和史は今も夢の中だ。かと言って、朝まで待っていたら屋敷の建物がどうなるか分からない。ギシギシという家鳴りはずっと続いている。父親を起こしに行こうか迷っていると、ミヤビが莉緒に聞いてくる。
「お嬢ちゃん、紙人形は何枚動かせるようになった?」
「えっと、二十枚かな……まだ動きに安定感はないけど」
「二十あれば上等上等。新しい形代は居間の引き出しにしまってあるから、それでこの家の敷地をぐるっと囲って一気に除霊しよか」
軽く言ってのけるミヤビに、莉緒は絶句する。除霊なんてものは、「さあやってみ」と言われて出来るものじゃないはずだ。しかも、紙人形を使って、この狭くはない屋敷全体を一気になんて……
無理だと主張する莉緒のことを、「とりあえずやってみ」の一言で猫又はあっさりと片付けた。別にミヤビのスパルタは今に始まったことじゃないが。