父から灰崎君と呼ばれた黒スーツの男は、「ご無沙汰しております、藤倉さん」とにこやかに会釈を返してくる。その人懐っこい笑顔に和史の警戒が一気に溶けたのを見て、莉緒は心の中で一人焦っていた。
――この灰崎って人、絶対に何か企んでる……。
警戒心丸出しの強張った表情で客の前に座る莉緒のことを、灰崎の方も気付いたようで、父とは旧知の間柄であることを連れの男性へ説明するふりしながら懸命にアピールしてくる。眼鏡をかけた気の弱そうな男性は、灰崎の話を時折頷きながらも黙って聞いているだけだ。積極的に話を振る灰崎に反して、こちらはどこか消極的な雰囲気だった。
「藤倉さんには私が駆け出しの頃にとてもお世話になりましてね。若輩者には厳しい世界ですから、相談できる相手も少なくて――」
「いやいや、君は私なんかと違って実力があるから、あっという間に打ち解けていたけれどね」
「そのキッカケを作ってくださったのは、藤倉さんですから」
この灰崎は、あの時に家の中を覗いていた不審者でもあり、嫌がらせを仕掛けて来た式神の契約者。それが目の前で穏やかに父と談笑しているのは、どう考えても不信感しか湧いてこない。でも、もし言ったところで、証拠は何も残っていないから否定されたらそれまで。何もかも莉緒の記憶違いだと言われてしまったらお終い。
機嫌よく会話を続けている和史は、娘の困惑に気付いていなさそうだ。
莉緒が一人で悩んでいると、灰崎がムサシへと一瞬だけ視線を送ってから本題を口にし始める。和史と思い出話をしている最中も、灰崎はちらちらと妖狐の存在を気にしているようだった。隣に座っている男の方もまた、ソワソワと落ち着きなく部屋の中を見回したりしている。
「彼は三上正臣君というんですが、そちらの妖狐を使役していた結城家の外戚で、亡くなった前当主の曾孫にあたるそうです。親の代で勘当されていたこともあり、親戚付き合いが全く無かったせいで、ひいお爺さんが亡くなられたことも式神の存在も最近まで知らされてなかったそうです」
「結城家か。名前は聞いたことはあるが……」
「私も直接面識があるわけではないです。高齢で会合類には一切出ておられなかったみたいですし」
祓い屋同志の情報交流の場である会合は、年に数回の頻度で開催される。繋がりのある家同志だけの小規模なものがほとんどで、全祓い屋が集結するという訳でもない。まともに祓いの仕事を行っていない和史には敷居の高い集まりだ。
「それで、彼に式神を返せと? 電話でも伝えたように、すでに契約の上書きは済んでしまってるんだけどねぇ……」
「ええ、遠縁とは言っても正臣君は正真正銘の血縁者です。今は祓いとは関係のない仕事をされていますが、彼には式神を引く継ぐ権利があります」
素質があり、あやかし側の同意を得られれば、誰でも使役者になることは可能だ。現に、高校生の莉緒が今はムサシの契約者になっているくらいなのだから。
流暢に営業トークのように説明してくる灰崎の言葉を、和史は腕を組んで眉間に皺を寄せながら聞いていた。この三上という男が正統な後継者なのなら、妖狐は手放す以外にない。でないと他所の式神を横取りした形になってしまい、同業者からひんしゅくを買い兼ねない。
「そうかぁ……」
困り顔で呟きながらも、和史は古い付き合いのある祓い屋仲間の言葉を信じきっているようだった。仕方ないなとでも言いたげに、愛娘を諭すよう視線を送ってくる。けれど、莉緒は納得いかないと顔を小さく横へ振る。
「でもな、莉緒。式神というのは代々血縁者が継承していくものなんだよ」
「分かってるよ、それくらい。でも、それは継承できる力があればの話だよね?」
莉緒が口にした言葉に、向かいに座っている灰崎がピクっと小さく目元を引きつらせたのは見逃さなかった。
――やっぱり、そうだ。この三上って人……。
莉緒と同じことを考えたのか、ずっと大人しく座っていたムサシがすっくと立ちあがる。そして、トンと長机の上へ軽く飛び乗って、客二人の目の前に立ち塞がり、九尾を全て膨らませ、唸りながら口を大きく開けて牙を剥き出して威嚇する。大型犬サイズの大きな白狐が、今にも襲い掛からんと、露骨に敵意を剥きだして来たことに、灰崎が座ったまま後退りする。彼の式である小袖の手も、上位のあやかしの圧に押され、部屋の隅へと逃げ込んでいた。
「たしかにこの者は結城の血縁者だ。以前の主と同じ血の匂いがする。けれど、私を使役する力など持ち合わせてはおらん」
そう言って、九尾の狐は三上という男のことをちらりと見た。隣に座っていた灰崎が怯えた表情で部屋の隅に逃げたのを、三上正臣は不思議そうな顔をして見ているだけ。そう、この至近距離にいても、彼には妖狐の姿どころか気配すら感じていないのだ。
「君、視えていないのか?」
和史の問いかけに、「何がです?」とでも言いたげに、三上はきょとん顔で瞬きしている。視えないものには反応しようがないのだ。
ようやく状況を理解した父が、灰崎へ向けて厳しい顔を向けた。
「灰崎君、一体どういうことなんだ? うちに彼を連れて来た理由を説明してくれないか」
普段と変わらない穏やかな口調。それが今は逆に凄みのようなものを感じさせてくる。莉緒の隣に戻って座り直したムサシは、いつでも戦えるぞと言いたげに九尾を膨らませたままだ。
「いや、あの……」と口をモゴモゴさせ、妖狐の威圧に震える灰崎に代わって、先に口を開いたのは三上の方だった。連れの様子から形勢不利と感じたのだろう、呆れた表情を浮かべている。
「僕は灰崎君から頼まれただけです。あやかしが視えるふりして付いて来たら金くれるっていうから。でも、やっぱ視えないのはどうしようもないっすよね。――あ、貰った前金は交通費ってことで、返すつもりはないんで」
そう言ってから立ち上がると、勝手に襖を開いて廊下へ出ていく。しばらくすると玄関扉がカラカラと開閉される音が和室へも聞こえてきた。