勢いよく駆け出したカマイタチにより、周辺に強い風が起こる。触れるものを容赦なく切り裂くほどの鋭い突風。縁日コーナーに立て掛けてあったのぼりが、スパッと二枚に切断されて、ヒラヒラと地面の上に切れ端が落ちていく。傍に立っていて運悪く接触してしまった子供の足から血が滲み出て、横にいた母親が慌て始める。服ごと切られた男の子はしばらく放心していたが、周りが騒ぐのを見て怪我に気付いたのか急に大泣きし出した。この場にいるほとんどの人が、今の一瞬で何が起きたのかは分かっていない。
「ちょ、ちょっと……!!」
咄嗟にあやかしを止めに向かおうとした莉緒を、ムサシがリードを引っ張り返して制してくる。冷静に考えたら、暴走中のカマイタチに手を出せば、莉緒まで大怪我を負うだけだ。あやかしの指先に備わる鋭利な鎌は紙人形では防げない。スパッと切り裂かれるのがオチだ。
遠巻きに様子を伺いつつ、さっき鬼姫が立っていた場所へと視線を戻す。周囲の騒動に驚いた鬼の姫が、ひらりと着物の裾をたなびかせながら、縁日コーナーに集まってくる人の流れに逆らうようにこの場から立ち去って行く後ろ姿が目に入る。
「やばっ、逃げられた……?!」
すぐに人だかりの向こうへと消えてしまった鬼姫の後を、カマイタチが追いかけるつもりで走り始める。これ以上、関係のない人達を傷付けられては堪らないと、莉緒はポケットに忍ばせていた人形代を二枚、カマイタチへ向けて投げつける。
シュンと飛び立った紙人形は、走り出したあやかしを追い越し、くるりと回ってその二つの目にべたりと貼り付く。急に視界を遮られたカマイタチが、驚いて足を止めた。妖狐と共に駆け寄った莉緒は、息を切らしながら怒鳴りつける。
「お姫様を追いかけたいのは分かりますけどっ。関係ない人達に怪我させてしまうから、ちょっと落ち着いて下さい!」
「そ、そうでございました……申し訳ありません、私としたことが……」
気持ちは分かるんですよ、とカマイタチの顔から形代を外して宥めながら、莉緒はアーケードの奥へと首を伸ばす。鬼姫の朱色の着物は完全に見えなくなってしまっていた。
昼過ぎにもなってくると、商店街の客足は益々増えているようで、犬連れで歩くのは段々と大変になってくる。それでも人を除けつつ、鬼姫の姿を探しながらタイル張りの遊歩道を進んでいく。
奥へ向かって歩いていると、遠くから聞き慣れた太鼓の音が耳に届いた。アコーディオンが奏でる軽快な曲と、クッキー缶を叩く微妙な音色。素人メンバーばかりでは格好がつかないと、商店街裏のピアノ教室の先生を巻き込んだのが功を奏したのか、それなりにちんどん屋っぽくはなっている。派手な着物にカツラを被り、白塗りの化粧をしていて、和史以外は誰が誰だか見当がつかない。
お揃いで着物の上に商店街の緑色のはっぴを羽織って演奏する一団は、シャッターを下ろした空き店舗の前で曲を披露しつつ周辺の人達へとチラシを配って回っていた。ちんどん屋というのは練り歩きながら演奏するものだと思っていたけれど、あまりの人の多さに移動せずその場でパフォーマンスすることにしたのかもしれない。
その寄せ集めの即席グループを観覧している人山の中に、莉緒は見覚えのある牡丹柄の着物を見つけた。人垣の後方で草履の足でつま先立ちしながら、物珍しそうに瞳を輝かせて和史達の演奏を眺めている鬼姫。初めて耳にする陽気な音楽にすっかり夢中になっているようだった。
「居た! ――あ、私が行きますから、ここで待ってて下さい」
また突進していきそうだったカマイタチを、さっと右手で制した後、莉緒はゆっくりと鬼姫の元へ近付いていく。ムサシのリードをキュッと握り直してから、莉緒は鬼姫へと声を掛けた。
「三華様、ですよね?」
「――お前、私のことが視えるのか?」
問いに問いで返しながら、三の姫は莉緒が握っているリードの先へ視線を向けている。そして、何かを諦めたようにハァと深い溜め息をついていた。犬の姿にはなっているが、目の前の人間が連れているものの正体は鬼の目にはちゃんと分かるらしい。
「それを連れているということは、お前は祓い屋というやつか? 私を封印しに来たということか」
「ち、違いますっ。私はただ、カマイタチから、あなたを探し出すのを依頼されただけです」
封印なんてしません、と首を横に振って否定する。間近で見る鬼姫は、朱色の着物がよく映える色の白い肌に、見た者を惹き付けて離さない赤い瞳が印象的な女性だった。聞くところによれば百歳超えらしいけれど、莉緒よりも少し上くらいの見た目年齢。黒髪の間から覗く二本の角は小指ほどで、それまで莉緒が鬼というものへ抱いていた怖いイメージとは全然遠い。鬼なのにどこか儚げだ。
「……そうか、私が勝手をしたから、人の子にまで手間をかけさせてしまったのか」
「いえ、そこまででは――」
途中まで言いかけた莉緒は、さっきカマイタチによって怪我を負わされた小さな男の子のことを思い出す。そもそも、この鬼姫が逃亡しなければ、あの子が血を流すことは無かったのだ。そう考えると、鬼の姫だからと気を使うのも馬鹿らしくなってくる。
「悪いと思うんなら、もう逃げたりしないで下さい。見てみたいものがあれば案内しますし、食べたい物があれば買ってきますから――」
と、莉緒は周囲の人達が自分のことを微笑ましい目で見ていることに気付き、慌てて口を閉じる。他の人には鬼姫の姿は視えていない。「あのお姉ちゃん、ワンちゃんと仲良しだねー」という幼い子供の声に、顔を赤らめてパッと俯く。
――今の私、横に連れている犬を相手に、一方的に話しかけている人に見られてた?! しかも、犬に向かって丁寧語……?!
しばらくして、そっと顔を上げると、緑色のはっぴを羽織って小太鼓を叩きながら、こちらを向いて和史がニヤニヤと笑っているのが見えた。現職の祓い屋である父には、娘が笑いものになっている理由も全てお見通しだ。