莉緒達が住んでいる街のど真ん中を横断するように流れる川は一級河川に指定されているだけあり、そこそこの川幅をもつ。シーズン中には上流で放流された鮎を求めて、釣り人がやたらと長い竿を投げている光景を見ることもある。
その広い川を見下ろすように建てられた新しいホテルは、敷地内に沢山のヤシの木が植えられたアジアンリゾート風のもの。最上階に大きな窓のある披露宴会場があり、式の最後には川辺から打ち上げられる花火を参列者と共に眺めることができると評判だった。
週末になると、風向きによっては莉緒の自宅からも花火の音が聞こえることがある。さすがに離れているので音だけだけれど、きっと高台に上がれば見えるはずだと以前から思っていた。
で、辺りを一望できそうな場所といって真っ先に頭へ思い浮かんだのは、ムサシと出会った神社だ。鳥居をくぐり抜けてから長々と続く階段を昇り切った先には、こじんまりした本殿が建っているだけ。境内にある社務所も普段は人影もなく、年末年始や夏祭りの時に氏子が寄り合う以外に使われているのは見たことがない。地元の人しか立ち寄らないひっそりした場所。
神社の鳥居を抜けてから、莉緒は周囲に人の気配がないことを確認した後、白犬の首から赤い首輪を外してやった。行動を制限していたリードから解放されると、ムサシはその場でくるりと宙返りして変化を解く。そして、ようやく本来の姿に戻ったことを確認するかのように、ブンブンと九本の尻尾を左右に振り回していた。
太陽が沈みかけ、すでに辺りが薄暗くなりかけてきた中、ゆっくりと階段を昇り切った後、莉緒はあやかし達を一本の古い杉の木が植わる場所へと連れて行く。それはご神木として祀られているらしく、太い幹にはしめ縄が巻かれている。その木の後ろをぐるりと回り込めば、落下防止の柵の向こうには木々の間に市街の景色が広がっていた。境内に植わる杉やクヌギの木が視界を遮る為、見える範囲はそれほど広くはない。けれど、流れる大きな川とその向こうに建つ真新しい白い建物はちゃんと確認できる。
「川を越えた、あそこのホテル前から打ち上げられるみたいですよ」
莉緒が指差した方角を、鬼姫は興味津々と見つめている。結婚式の催しとして河川敷から打ち上がる数はそれほど多くはない。鬼の姫が花火大会レベルを期待しているのだとしたら、きっと物足りないだろう。
――来るのが、真夏だったら良かったのにな。
電車を乗り継ぐことにはなるけれど、夏場ならもっと沢山の花火が上がるのを見せてあげられたのにと残念に思う。
バッグからスマホを取り出して、莉緒は現在時刻を確かめる。十八時まではあと十数分。もう少し待つつもりで柵に凭れかかった時、遠くからシュルシュルという火薬が燃える音が微かに聞こえてきた。どうやら、予定よりも早く始まったみたいだ。莉緒がハッと慌てて振り向くと、それは空に向かって真っすぐに白い線を描いていく。
そして、消えたかと思った瞬間、夜空に大きな赤色の花を咲かせる。キラキラと光る鮮やかな火の華。それがドンという大きな音と共に散るように消えていった。その後、続けて打ち上がるのは青色の花火。暗かった空に咲き乱れる花々を、今日あのホテルで結婚式を挙げたカップルはきっと幸せいっぱいで眺めているのだろう。
色とりどりの花火を鬼姫は両手を胸の前に重ねながら眺めていた。音と光に圧倒されているらしく、息を飲んだまま固まっているようだった。同じく花火を見るのが初めてだというカマイタチは、打ち上がる音が怖いらしく両耳を手で押さえていた。
花火が上がっていたのはほんの五分ほどの短い時間。上がる角度によっては目の前の木に隠れて半分見えなかったりして、少し物足りなさを感じた。もっと別の場所で見せてあげれば良かったかもと、莉緒がしょんぼりしていた時、打ち上げ後しばらく黙り込んでいた鬼姫が、ぽつりぽつりと口を開く。
「一の姉様が文で書いておられたのだ。空に咲き乱れる火の華を見たら、些細なことなどはどうでも良くなってきたと。だから、私もそういう風に物事を捉えることができたらと思った」
華やかに咲き誇り、儚く消えて行く火の花。諸行無常を感じ、何かに固執しているのがバカバカしくなるのだという姉姫からの手紙。思い悩んでいることを振り切る為に、鬼姫はその文言にすがりついた。わざわざかくりよを出て、この世で花火を見ることを願ったのだ。どうでも良くなりたいと考えるほどの悩みを抱えていたという三の姫。今、彼女の悩むことというと、間近に控えているという婚礼のことだろう。
「……三華様は、結婚したくはないんですか?」
親が決めた結婚。かくりよの半分を統治する鬼の姫という立場は、莉緒には想像がつかないようなしがらみがあるのだろう。けれど、鬼姫は莉緒の問いに、くすりと小さく笑みを漏らした。
「嫁ぐことに、何の不満もない。相手とは従兄弟同志で互いに気心も知れている。幼い頃から兄様と慕っていたから、父から話を聞いた時はホッとしたものだ」
「じゃあ、何に対して?」
花火を見ることで吹っ切りたいと思うことは何なんだろうと、莉緒は鬼姫の横顔を見る。鬼姫は暗闇に戻った空を見上げたまま言葉を零す。
「兄と思っていた者を、夫と思わなければならない。少し頭が混乱してしまったのかもしれないな……鬼族の繁栄には欠かせない縁談だと、しっかり理解していたつもりだったはずなのに」
頭では分かっているのに、心が追い付いていなかったと、鬼姫は他人事のように笑っていた。その笑顔が出るということは、もう心の中で踏ん切りがついたということなんだろうか。莉緒は眉を下げた悲しい顔で鬼姫のことを見る。
本当は、三華も一の姫のように全く別の生き方がしたいんじゃないかと思えてならない。鬼の統領を親に持ったことで、人生のほとんどを縛られている鬼姫。祓い屋という特殊な家に生まれた自分とも、少しだけ重なる部分がある気がした。だからこそ、笑って受け入れることができる強さを持つ彼女のことを心底凄いと思った。
「だがな、あの大輪の花が夜空で煌めいているのを目にしたら、姉様の言っていた通りにどうでも良くなった。無理していてもしょうがない。夫と思えないのなら、ずっと兄様と思っていればいい。どう思っていようが、夫婦になることに変わりはないのだから」
「本当に良い光景だった」としみじみ語る鬼姫は、今日一番の笑顔を見せる。大きく美しい火の華と共に、心の迷いも消えていったようだと。そして、「何かあればいつでも訪ねよ」と言い残して、カマイタチと共にかくりよへと帰っていった。その後ろ姿にはもう、何の迷いも感じられなかった。