藤倉家から通りを二つ越えたところには旧家の名残りのある古くて大きな屋敷が目立つ地域がある。この辺りの地主が集中したそこは、土壁や石垣に囲まれた家も多く、他とは時代が逆行しているかのような独特の雰囲気を醸し出していた。
白犬の姿になったムサシのリードを持って、莉緒は周辺を珍しいものでも見るように眺めながら歩く。駅とは真逆の方向だから、最近はこちら側に来ることはほとんど無かったし久しぶりだ。小学校の仲良しの友達で一人だけ、地主の家の子がいて、彼女を訪ねた時以来だろうか。その子は高学年になって親の転勤で引っ越してしまったから、以降はこの辺りへ来る用事は無くなった。
駅側は人通りが多くて落ち着かないというムサシに引かれて、古民家が建ち並んでいる間をのんびり通り抜けていく。散歩中、ほとんど誰ともすれ違うことはなかったのが不思議だった。大通りから離れている為に車の通りも少なく、辺りが閑散としているように感じ、同じ街の中を歩いているとは思えない。
手入れされていないせいで門や柵が朽ちていたり、庭には雑草がはびこっていたりと、一見して空き家だと分かる家も何軒か見かける。莉緒が遊びに行った同級生の家があった場所は、完全に更地になっていた。
低いブロック塀に囲まれた一軒の屋敷の前で、不意にムサシが立ち止まる。そして、耳をピクピクと動かして何かを探るような仕草をし始めた。明らかに空き家なその家のことを、莉緒も首を伸ばして覗き見る。蔵を二棟も抱えた、この辺りでも有数の広さを誇るだろうお屋敷。
蜜柑と柿の木が植わった庭は、以前は家庭菜園だったんだろうか、伸びた雑草の合間にはいくつかの畝の痕跡が見られる。どの窓も木製の雨戸で閉ざされ、玄関前まで敷き詰められている砂利も草に覆われてしまっている。『内村』と書かれた表札はかろうじて読むことができるが、その内村さんはもうここに住んでいないことは一目瞭然。人の手が入らなくなって数年と言ったところだろうか。
その内村家の屋敷を一瞥した後、ムサシが憐れむように呟いた。
「この屋敷から、あやかしの気配がするな」
「とっくに人は住んでないみたいだけど……?」
「家人が居なくなった後も住み着いたままなのだろう」
廃屋に人ならざるものが住み着いてしまうことは珍しくないとムサシが言う。特にこういった古い屋敷はいろんなものを呼び寄せ易いのだと。その時の莉緒は、そうなんだと軽く聞き流しただけで別段気にも留めていなかった。
その古い町並みの静かな雰囲気を妖狐が気に入ってしまったみたいで、それから数日後の夕方にもまた莉緒達は同じ道を歩いていた。人通りが無いのをいいことに、隣を歩くムサシに他愛のないことを話しかけながら散歩していると、またあの内村邸の前に出る。白犬は足を止めようとしなかったが、今度は莉緒の方がリードを引いて歩くのをやめた。
「待って、この家、もうすぐ解体されるんだって」
門に貼られたA4サイズの白い紙に気付き、莉緒はそれを読み上げる。来週から始まるという解体作業のお知らせは、近隣住民向けに施工業者の名義で掲示されていた。個人宅とは言っても敷地面積は広いからか一ヶ月もの作業になるらしい。
建物が解体されるということは、かつての同級生の家と同じようにここも更地になってしまうのだろうか。
「……住むところが無くなったら、どうなるんだろ?」
この屋敷に人が誰も住んではいないのは確定だ。全く別のどこかへ引っ越してしまったか、或いは血が途絶えてしまったかは分からない。でも、ここを住処にしているあやかしはどこへ行くつもりなのか? 行くあてはあるのだろうか?
莉緒の問いに、ムサシは「ふむ」と考える素振りを見せる。居場所が無くなる苦労は、廃業した祓い屋の式神だった妖狐が一番よく分かっているのだ。
「住処が取り壊されるのが理解できていれば、とうに別のところへ居住を移しているはずだがな」
「解体のことに気付いてないってこと?」
「いや、そこまでは分からぬ」
家に居場所が無いと悟ったムサシは前の祓い屋の家を出て、縁ある者を求めて外を彷徨っていた。この内村邸に住むあやかしも、危険を察知していればとっくに逃げ去っていてもおかしくはない。なのにまだ建物の中には、一体のあやかしの気配があるという。
いつまでも門の張り紙の前で立ち尽くしていると、莉緒の後ろを通り過ぎて行こうとしていた子供用の自転車が止まる。ブレーキの音に振り返れば、スイミングスクールのバッグを背負った小学生くらいの男の子。犬が好きなのか、莉緒の隣でちょこんと座っている白犬を見て、触りたそうにウズウズしている。莉緒が「触ってもいいよ」と声を掛けると、少年は自転車を降りてムサシへと駆け寄ってくる。尻尾を隠して不機嫌そうに眉間へ皺を寄せてはいるが、撫でられるがままの白犬。
「その家、もうすぐ壊されるんだよ」
「うん、みたいだね。知ってるお家?」
「知らない。だって、そこお化けしか住んでないし。お化け屋敷だから」
「お化け屋敷?」
「みんな言ってるよ。夜にこの家の前を通ったら、家の中から子供の声が聞こえたりするって。ずっと誰も住んでないはずなのに」
男の子は得意気な表情で、友達から聞いたという噂話を口する。詳しく聞こうとした莉緒だったが、少年はバッグに付けていたジュニア携帯で時間を確認した後、「やばい、遅刻するっ!」と慌てるように自転車に飛び乗って、駅の方角へと走り去っていってしまった。