妖狐から座敷童というあやかしのことを聞いていると、莉緒の部屋の窓ガラスに何かがぶつかる音がした。驚いて振り向けば、さっき飛ばして行方不明になっていたはずの紙人形がガラス面に貼り付いていた。
「え、なんで……? 私、今は何も操作してなかったのに……」
自分で作った紙人形なのは間違いない。でも、音沙汰が無くなった後は何の指示も与えていなかった。形代が勝手に戻って来た? これは一体、どういうことなんだろう?
中に入れて良いものかと迷っていると、妖狐がガラス越しに形代の匂いを嗅いでから告げる。
「あの屋敷の小童の仕業だ」
「座敷童の?」
「墨の匂いがする。何か書き記してから寄越して来たらしい」
入れても問題ないだろう、という妖狐の言葉を信じて、莉緒は恐る恐ると窓を開け、戻って来た紙人形を手に取った。手の平に乗せて形代の様子を確認してみるが、換気扇の隙間から潜り込んだ時に擦れてできたらしい傷以外は特に何も変わっていない――ように、莉緒の目には見えた。
紙の表裏をひっくり返している莉緒の手元を、ムサシが青い炎を出して照らし始める。すると、その鬼火に反応して形代の裏面に薄緑の文字らしきものが浮き上がってきた。子供の頃に蜜柑の汁でやった、あぶり出しの実験を思い出す。
――そう言えば、あの庭にも蜜柑の木が植わっていたなー。
莉緒の手の上を覗き込んで、ムサシが書かれている文字を読み上げてくれる。かくりよで主に使われているあやかし文字らしいがちょっと象形文字っぽい。
「たすけて、か。どうやら屋敷が取り壊されることはちゃんと理解しているようだ」
「……ってことは、やっぱりあそこから出られなくなってるってこと?」
「うむ。和史が言っていたように、土地に縛られているのだろう。解放されない限り、どこへも行けまい」
祓い屋に助けを求めてくるくらいだから、よっぽど切羽詰まった状況なのだろう。けれど、屋敷の中にいる座敷童をどうやって解放してあげればいいんだろうか。夜中にこっそり忍び込む、というのもちらっと頭に浮かんだが、それでは不法侵入で下手すれば莉緒が捕まってしまう。人助けならぬ、あやかし助けで犯罪者になるのは御免だ。
土地の所有者とは全く面識もないし、としばらくの間、頭を抱える。
「なら、解体業者に頼んだらええやん。お化け屋敷の噂があるくらいやし、祓い屋が出しゃばってきても変には思われへんやろ? タダで祓ってやる言うたら、喜んで中に入れてくれるはずや」
ムサシと一緒に散々考えあぐねた挙句、結局何の案も思いつかなかったのに、台所で明日のお弁当の仕込みをしていたミヤビに相談したら、一発で解決策に辿り着いてしまった。
「通り二つ向こうの内村さん……ああ、蔵のあるお屋敷か。前は愛想の良い奥さんと、ひょろっとした頑固爺が住んではったなぁ。ま、四半世紀前の話やけど。――明日にでも解体業者を調べて、連絡しといたるわ。――そかそか、じゃあ今晩中に座敷童の方とも話付けに行かなアカンなぁ」
ぺろりと指先を舐めてから、ミヤビが空中でソロバンを弾く仕草をする。業者側へは解体前に無料でお祓いをすると告げて、依頼料は座敷童の方から取るつもりらしい。猫又の営業に抜かりはない。
ただし問題は、表向きは和史が祓うという体で行かなければならないことだ。
「当たり前やん。お嬢ちゃんだけやったら、こんな女子高生に何ができるねんって追い返されるだけやで。見た目やったら、ボンもそれなりには見えるしな」
実力はないけど、という言葉を飲み込んだのはミヤビの優しさなのだろう。
娘があやかしに関わることを嫌がる和史も、保護者である自分も同伴ならと渋々承諾したようで、解体業者が重機を入れる前日に莉緒と一緒に内村邸を訪れた。
門の前で待っていたスーツ姿の男性は施工会社の営業マンだろうか。父と名刺を交換し合っている間に、莉緒はムサシと共に敷地内へ足を踏み入れる。
雑草だらけだった庭の一部は四角く除草されてテントが張られ、明日の午前から執り行われる清祓いの儀式用の祭壇が置かれていた。儀式後、解体作業は午後から始まるらしい。そのテントの脇をすり抜けて、莉緒は木製の古びた玄関戸に手をかける。歪んで突っかかる戸を両手に力を入れて横へスライドさせると、カビと埃の混ざった湿気臭い空気がむわっと襲い掛かけてきた。業者も見積もり時に一度入ったきりだと言っていたし、換気なんて何年もされていないのだろう。
莉緒はこないだ紙人形を使って忍び込んだ時のことを思い出しながら、屋敷の奥へと進んでいく。埃が積もった畳は真下の床板まで傷んでしまっているのか、足を乗せるだけで深く沈んでしまう箇所もあって歩き辛い。靴を履いたままの莉緒と違って、ムサシは足裏にダイレクトに汚れるから怪訝な顔をしている。帰ったらお風呂で洗ってあげなきゃなと考えながら、仏間の横の部屋を覗き見る。
「遊びに来てくれたの?」
畳の上に両足を投げ出すように座って、菊柄の着物の幼女が金色の目で莉緒のことを見上げて聞いてくる。埃にまみれた古い屋敷の中で、座敷童の白地の着物が何だか異質に見えた。
「ねえ、ここにはいつから一人で?」
莉緒は幼い見た目のあやかしの前で、膝をついて聞き返す。業者の話では人が住まなくなってから随分経つみたいだけれど、この子はずっと一人ぼっちでいるのだろうか?