「誠一郎は泣き虫だから、一人ぼっちだとすぐに泣いちゃうの」
内村誠一郎――この屋敷の持ち主のことだ。妻の綾子に先立たれた後、しばらくはこの家で一人暮らしをしていたが、隣町に住む娘家族と一緒に住むことを数年前に決めて出て行ったらしい。外から聞こえてきた業者の話を掻い摘み、ムサシが莉緒へと耳打ちする。
「誠一郎というのは八十を過ぎた爺さんのことらしいが……」
「ミヤビがひょろっとした頑固爺って言ってた人のことかな?」
ずっとここに住み着いている座敷童にとって、この家の人間はいつまで経っても子供のままの感覚なのか。生まれた時から亡くなるまで、ずっとこの家の家族の生涯を見守っていたら当然と言えば当然。でも、いくら涙脆い人だとしても、いい大人はそうそう泣くことはないだろう。そう思いながらも、莉緒はあやかしの話に耳を傾ける。
座敷童はお手玉の感触を楽しんでいるのか、両手の上に乗せた三個の玉をニギニギしている。中に入れた小豆がこすれ合う、キュッキュッという音が微かに耳に届く。
「この家にはいろんな子供がいたけど、誠一郎が一番の泣き虫なんだよ。誠一郎が泣いたら、アタシがよしよしって頭を撫でてあげるの。美紗が生まれた時も、綾子が死んじゃった時も、泣き止むまでアタシがずっと傍にいてあげたんだよ。あとね、寝る時も一人だと怖がるから、枕元で数え歌を歌ってあげることもあるよ」
まるで小さな弟か何かのように、八十を過ぎているはずの家主のことを語る座敷童。けれど、家人達にはあやかしの姿は視えていないから、そんな風に世話を焼かれていることすら気付いてはいないはず。幼女に頭を撫でて慰められる老人、想像するだけでもかなり不思議な光景だ。
座敷童は遊び終わったお手玉を着物の袖の中に戻すと、雨戸で閉め切られている縁側へ視線を送る。もう何年も開けられることのないガラス戸の向こうの見慣れた景色は、瞼を下ろしていても見えるとでも言うかのように。
袖口から今度は手の平サイズの赤色のゴムボールを取り出して、「次はこれで遊ぶ?」と聞いてくるが、莉緒は困り顔で黙って首を横に振る。今日は遊びに来たわけじゃない。座敷童のマイペースぶりに、油断すると調子が狂いそうになる。
畳の上でボールを一人で転がし始めた幼女は、ホッとした表情で、けれど寂し気に呟いた。
「美紗達と一緒なら、あの子も泣かなくて済むね。でも、もうここに誠一郎が帰ってくることはないんだ……」
話の流れから、美紗というのは家主の娘の名前なんだろう。誠一郎に子供が何人いたのかまでは分からないが、嫁いで出ていった娘の一人か。家主は住み慣れた家を離れ、娘家族との同居を決めた。古い建物は段差も多い上に、年老いた誠一郎一人では広い庭の手入れもままならない。でも、座敷童の存在に気付いていた老人は引っ越しする当日まで、このあやかしのことを気に掛けていたみたいだった。視えはしなかったけれど、先祖から聞いていたこの家の守り神の行く先を案じて。
「いなくなる前、誠一郎が何回も言ってたの。『もうここには居ちゃいかん』って。アタシがあそこに居る時にも居ない時にも、しつこいくらい言ってた」
座敷童が祀られた床の間へ向かって、家主はこの家がいずれ壊されてしまうことを必死で伝えようとしていたのだという。屋敷が無くなる前に安全な場所へ逃げ出してくれるようにと。引っ越してから解体するまで長い期間を置いたのは、やっぱり座敷童の為だったのだ。
もしかしたら、近所でお化け屋敷の噂が立っていたくらいだから、座敷童の姿や声が彼にも見聞きできたことがあったのかもしれない。だから家主はこの家に住み着いているあやかしに向かって声を掛け続けた。『早く出てお行き』と。
「でも、誠一郎が何のことを言ってるのか、全然分からなかった。だって、この屋敷はずっと前からここにあったもん」
屋敷が無くなることなど考えもしなかった座敷童は、いつかまた誠一郎が帰ってくると信じ、そのまま待ち続けていた。見知らぬ人が屋敷の中に入ってきて、残っていた家財を持ち運んでしまった後も、再び以前のように雨戸が開け放たれて家の中に風が通る日が来ることを願い続けた。
でも、待てど暮らせど誰も戻っては来なかった。ずっと一人きりなままだった。
「そうだよ、明日の午後には解体工事が始まって、この家は壊されてしまう。朝から清祓いの儀式が行われるし、それまでにどこか別の場所に逃げておかないと――」
ここに居座っていては座敷童まで一緒に祓われる可能性がある。儀式を行う神官の力量にもよるだろうが、どちらにしても無傷では済まない。そう伝えると、幼女の姿をしたあやかしは首を横へ傾げて少し考える素振りを見せる。
「別の場所って……?」
「新しく住み着く家を探すでも、かくりよへ帰るでも好きにすればいい。我々は呪縛が解けた後の面倒までは見切れん」
座敷童の問いかけに、ムサシがぶっきらぼうに答えた。座敷童が妖狐の足下にゴムボールを転がしてきたのを、苛立ちながらも前脚で蹴り返している。