赤色のゴムボールは空気が抜けかけているのか、前へ転がされても畳の上で真っ直ぐには進まない。ふらふらと軌道を歪めながら部屋の中を移動するボールを追いかけて、幼女の姿を模したあやかしが隣の仏間へと駆けていく。きゃっきゃっとあどけない笑い声と、トタトタという小さな足音。近所の人達にまで聞かれてしまい、ここがお化け屋敷と噂されるようになった原因は間違いなくこれだ。
真剣な話をしていたつもりなのに、また自由に遊び始めた座敷童のことを莉緒は呆然としつつ眺め見ていた。ずっと一人きりだったからはしゃいでいるようにも見えて、無理には急かし辛い。でも、外にいる和史が何度もわざとらしく咳き込んでいるのが聞こえてきて、妖狐と目を合わせる。
「これ以上の時間稼ぎは無理そうだね。急いで解呪しないと!」
「祓い屋のくせに、あやつはそれらしいフリもできないのか?」
「お父さんが祓ってるのなんて、一度も見たことないよ」
「何たる体らく……」
屋敷の中庭では祓いに来たはずの和史が、施工会社の営業マンと喋り続け、莉緒達が出てくるまでの間をもたせてくれているところだった。でも、一向に祓い屋らしいこともしないでいれば、いい加減不審がられてもおかしくはない頃合いだろう。そもそも、タダでお祓い請け賜わりますと連絡した時点で、最初からかなり胡散臭いとは思われているはずだ。
外から聞こえてくる咳払いは、父がもう限界という合図。
「とにかく、ここに居たら危ないから」
呪縛を解く為に持って来たお札を、莉緒は背負っていたボディバッグの中から取り出す。長く住み着いていた屋敷と座敷童との繋がりを断ち切る為の護符は、父が昨夜に書いて用意しておいてくれたもの。ああ見えて、物に力を込める技術だけは確かなのだ。なんせ、無意識に猫又を封印してしまった実績があるくらいだ。
莉緒は座敷童のところへ駆け寄って、護符をその小さな手の平に乗せた。不安そうな幼女へは「大丈夫だから」と声を掛ける。そして、その上に自分の手を重ねてから、静かに文を唱える。
「――この地に縛られし、汝の心体。自由の名のもとに今より解き放つ『解呪』――」
手の間の護符から柔らかな白い光が放たれ、座敷童の身体を包み込む。その光は白地の着物に描かれた赤や桃色の菊をまるで花あかりのように朧気に、でもとても華やかに見せた。このあやかしを縛り付けていた見えない鎖がするすると溶けていく。これまで一度たりとも、ここを出ていくという考えが浮かばなかったのは、心までもが屋敷に囚われていたせいか。
光が和らぎ、元の薄暗い室内に戻ると、それまで無邪気に振舞っていた座敷童が一瞬だけふっと大人びた笑みを浮かべた。見た目は幼子だけれど、この屋敷に住み着いてからだけでも百年以上の月日は経っているはずで、あやかしの実年齢は正直よく分からない。
「ここを出ても、行くところなんて……ううん、アタシ、誠一郎がいる家に行きたいな」
「今なら故郷に、かくりよに戻ることも叶うのにか?」
妖狐からの問いに座敷童はふるふると首を横に振って返す。呪縛が解け、どこへでも行けるようになった後も、座敷童は家主の傍らにいることを願った。生まれた時からをずっと見守り続けていた子と、その子孫をこれまでと変わらず見続けていたいのだと。
「あの子はすぐ泣いちゃうから、やっぱりアタシが傍にいてやらないと」
「八十を過ぎた爺さんだろうに」
「誠一郎は泣き虫さんだからね」
呆れ顔のムサシに向かって、座敷童が無邪気に笑いながら言う。ここで沢山の家人の生死を見守ってきたあやかしは、もしかすると九尾の狐よりも長く生きているのかもしれない。
「ヒトの寿命は心根まで大人になるには短すぎるんだよ」
「まあ、そうかもしれないが……」
もう天寿の終わりも近いと思われる内村誠一郎は子供の時から変わらず涙脆いのだと、少し嬉しそうに座敷童が語る。一人で静かに涙を流す彼の秘密を知っているのは自分だけなのが誇らしいみたいだ。
だからこそ、座敷童は願った。彼が泣いていれば、そっと隣に寄り添って頭を撫でてやりたいと。彼にはあやかしの姿は視えないのは分かっているけれど、それでも傍にいてやりたいのだと。
外から聞こえてくる咳払いに加えて、雨戸を控えめに叩く音が聞こえてきて、莉緒は慌てて屋敷の外へと飛び出す。草が覆い茂った中庭ではわざとらしく神妙な顔つきで右手を屋敷に向けてかざし、霊視のフリをしている父親の姿が飛び込んできた。「遅いよぉ……」と眉をへの字に下げて情けない顔のまま口の動きだけで愚痴ってくる和史。それに対しては「えへへ」と声を出さずに笑って返した。
娘の様子から中での解呪が無事に終わったことを察した和史が、やや改まった口調になる。
「それでは準備が整いましたので、これより悪霊祓いを執り行わせていただきます。――あ、危険ですので坂上さんは門の方まで下がっていただけますか?」
開いたままにしていた玄関戸から妖狐と座敷童が出て来たのを確認した後、和史は莉緒を傍へ呼び寄せ、反対に坂上という営業マンには少し離れた場所へと移動させた。この後のことは既に家で打ち合わせ済みだったから、莉緒は黙って父の元へ駆け寄った。