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第32話

 今日の和史は普段通りのカジュアルな私服姿だったが、その上から着物用の黒色の羽織りを軽く肩から掛けていた。襟元には藤の花を模した家紋が魔除けの意味合いを込めた銀糸で刺繍されている。そして、玉が大きめの黒真珠の数珠を持つ右手を建物へ向かって掲げ始める。その神妙な面持ちに、坂上と呼ばれていた業者が一歩後退りしたのが砂利を踏む足音で分かった。

 万が一にと彼のすぐ横にはムサシが待機していたが、あやかしの視えない坂上は丸っきり気付いてはいない。


「――祓い屋、藤倉の名の元に、この地を清め鎮め賜う――」


 和史が声を発すると同時に、莉緒はポケットに隠し持っていた紙形代を、業者からは手元が見えないよう気をつけてこっそりと飛ばした。二十枚の紙人形達が莉緒の手を離れて屋敷の母屋の周りを勢いよく飛び進み、等間隔でぐるりと建物を取り囲んでいく。そして、父が文の続きを唱え上げるタイミングに合わせて、反対の手で握り締めていた除霊用の護符に力を込めた。数珠をじゃらりと上下に一度だけ振られるのが合図だ。


「――『浄化』――」


 日の光の下では形代が薄く光を放ったのは確認できなかったかもしれないが、空中でパラパラと灰になって消えて行く様は視えない人である坂上の目にも確認できたはずだ。細かい灰は風に乗って舞い上がった後、静かに地面に落ちていった。

 声にならないどよめきが背後から聞こえてくると、父娘はそっと目を合わせて頷き合う。そして、和史が数珠を持つ手の平を胸の前で合わせると、莉緒も隣に並んで建物へ向かって仰々しく頭を下げる。


 ――ミヤビの作戦は、これで成功かな?


「これにて、祓いの儀はつつがなく終了させていただきました。また何かございましたら、ご連絡いただければ幸いです」


 後ろを振り返った和史が業者に向かって、にこりと会釈する。狐につままれたような顔をした状態の坂上は自分が今見たことが信じられないと口をパクパクさせている。元は紙である形代の動きは、視えない者でもちゃんと目で追えたはずだ。糸も無いのに飛んで行き、灰となって消える紙人形達を。

 そんな彼を横目に、莉緒達は内村家の屋敷の門を出ていく。後ろを付いて出てきた妖狐の背には少し興奮した表情の座敷童が跨っている。屋敷の外へ出るのは久方ぶりらしく、キョロキョロと物珍しそうに周囲を見回している。それに反して、馬代わりにされているのが不服なのか、ムサシの機嫌が悪いのは苛々と忙しなく揺れている九尾の動きでよく分かった。


「いい加減に降りろ、小童!」

「いいじゃないか、ムサシ。その子の足では時間もかかるだろうし、家まで乗せてやったら」


 黒の羽織りは暑くて堪らないと速攻脱いで腕に引っ掛けながら、不貞腐れている妖狐を和史が宥めている。言われて納得する点もあったらしく、ムサシは背の上の座敷童のことを振り落とさないよう気を付けながら歩いていた。隣町にあるという内村誠一郎の新居まではギリギリ歩いていける距離だったが、そこまで近くもない。座敷童の短い足で歩かせては日が暮れてしまうだろう。


「さっきの人――何だっけ、坂上さん? 少しは驚いてたみたいだけど、お父さんのお祓いだって信じてくれたかなぁ?」

「さあ、どうだろうねぇ」


 着慣れていない羽織りまで引っ張り出してきて、和史を本格風に仕立て上げることを提案したのは猫又のミヤビだ。本当は完全な和装で挑ませたかったみたいだけれど、草履は足が痛くなるから嫌だと主張していた父が、ギリギリ譲歩したのが洋服の上に羽織るだけのスタイル。そうやって見た目をそれっぽく整えた上で、莉緒の紙形代をさも和史が操っているように演出すれば、あまり詳しくない人には強い印象を与えることができるはずだ、というのがミヤビの作戦。実際、坂上もしばらく言葉を失ってしまうくらいには驚いていたし、成功と言っていいだろう。


「本物やって信じたら、次の依頼に繋がるかもしれんやん。さすがに次からはタダって訳にはいかへんけど」


 祓い屋としての実績が相変わらずない今は、多少オーバーな演出を施してでもコネを作っていきたいところ。解体業者なら今回の案件と似たようなものを抱えている可能性はゼロではないのだから。人脈は作るに越したことはない。


「そんなことより、明日の朝に清祓いの儀式をするって言ってたけど、先に祓っちゃって良かったのかなぁって思ってね。形だけでいいって言ってたのに、莉緒が本当に祓ってしまったから焦ったよ」

「あ……もしかして、裏庭にあった井戸?」


 台所から通じる裏の勝手口の横に古井戸があったのは、夜中に形代を使って忍び込んだ時に見ていた。屋敷の中にあった仏壇と神棚は既に撤去されていたから、明日の午前中に執り行われる儀式では井戸祓いが中心になるはずだ。

 特に悪霊というほどでもない、弱い霊の気配が井戸の周辺には何体かあったけれど、人の出入りがあるだけでどこかへ行ってしまうような他愛ないものばかりだった。でも、さっきのデモンストレーション的な祓いで、それらは完全に除霊されてしまったと和史が苦笑する。


「ま、まぁ、早くに成仏させてあげるのは悪いことではないからね」

「フリをしてるつもりだったのに……」


 無意識に力を使ってしまうところは、父親譲りなのかもしれない。

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