莉緒とムサシが紙形代と鬼火を引き上げたのを確認してから、黒毛の狸が洞穴の前に立つ。同族とはいえ、完全な初対面の相手へ向けて何と声を掛けていいのやらと、少しばかり悩んでいたが、大きく一つ深呼吸していた。
「ごめんください。こちらに真ん丸のおばちゃんという方はいらっしゃいますでしょうか? 私はかくりよから参りました、化け狸でございます。少しお尋ねしたことがございます」
こういう時、名が無いというのは不便だなと莉緒は狸のことを後ろで見守りながら思った。それぞれに名前がついていれば母狸を探すのも名乗るのももっと簡単だったはずだ。黒毛の狸も家族からは六番目の子という意味で六助と呼ばれているらしいが、それはただの愛称だから他所では通用しないと言っていた。どこの家でも兄弟は番号で呼ばれるもので、隣の家にもその隣の家にも似た名称の狸がゴロゴロいるのだと。
――そう言えば、鬼姫様も三の姫という意味で三華様って呼ばれてたっけ。
中へ向かって何度か繰り返して声を掛けていた黒毛狸だったが、洞穴からは一向に反応は返ってこない。さっき形代を使って覗いた様子ではかなり警戒されているみたいだから、よっぽどでないと出てきてはくれないだろう。
「やはりここは、鬼火で追い立てるしか……」
妖狐が九尾を膨らませて再び鬼火を出そうとする。すると黒毛が慌てて、「ですから、穏便にお願いしますっ」と止めに入ってくる。しかし、どれだけ待とうが隠れている化け狸達が顔を見せる気配はなく、莉緒は傍にあった手頃な岩に腰掛けながら欠伸を漏らした。ムサシもあまりの進展のなさにイライラと尻尾を忙しなく揺らしている。
「でも全然出てこないねー」
「黙って待っていても、拉致があかん。やはり鬼火で――」
「でーすーかーらっ、ここで同族と揉める訳にはいかないのです! そんなことが無駄な諍いを好まない二郎坊様のお耳に入ったら、折角いただいた奉公の話が消えてしまいます」
「ああ、お主の奉公先は大天狗の弟のところだったな。確かに平和主義のあやつは嫌がるだろう」
仕方ないなと、諦めたように妖狐はその場に伏せてしまう。中にいるもの達もいずれは食べ物などを求めて出て来るだろうし、ここは根比べだ。
思っていた以上に時間がかかりそうで、莉緒はリュックの中からマグボトルを取り出して、ほどよく冷えた麦茶を飲み始めた。お弁当にはまだ早いかもしれないが、この調子ならそれもここで食べる運命になりそうだ。川辺にピクニックに来たと思えば、まあまあ悪くはない。獣道を抜けた先だから人の手が入っていない自然そのままの場所。上流が近いらしく澄んだ水が流れる川は、目を凝らせば魚影も確認できた。
「天気が良かったのは救いだなー」
腕を伸ばし、新緑の香りがする空気を目一杯吸い込む。結局、詩織達との映画には行けなかったけれど、緩やかながらも結構な距離を登ってきたし、普段の運動不足も解消できたから良かったかも。そんな呑気なことを思っていたら、洞穴の入口に小さな黒い毛むくじゃらがひょっこりと顔を出した。
「こら、三助! 危ないから戻ってらっしゃいっ!」
奥から聞こえてくる慌てふためいた声。さっき偵察に入った時に見た大人の狸が、早く隠れなさいと子狸のことを𠮟りつけているみたいだった。
「えー、平気だよぉ。だって、こないだのニンゲンとは全然違うもん」
無邪気に顔を出して、穴の外をキョロキョロと見回している茶毛の子狸は、入口近くにいた黒毛を見つけ、わっと歓喜の声を上げる。
「わ、見たことが無い化け狸がいるよー。一助兄ちゃんより、ちょっとだけ大きな子。ねえ、お兄ちゃんもこの山に住んでるの? どこから来たの?」
完全に好奇心の方が勝ってしまったらしく、穴から身体ごと出てくる。小さな狸はさっき地蔵に化けていた狸と同じ茶色の毛をしているが、さらに小柄だった。化け狸の性別も顔立ちの判別もつかないけれど、弟か妹になるんだろうか?
「私は、かくりよ――あやかしの世から来たんです。この山に母がいると聞いて」
「お母さんを探してるの?」
「はい。もしかしたら、真ん丸のおばちゃんっていう方が、母のことを知っておられるかと思ったのですが……」
呼んで貰えないだろうかと黒毛が言うと、チビ狸は丸い目をさらに丸くしてから、元気よく頷いてみせる。そして、ぴょんっと飛び跳ねるように駆け出して、穴の奥へと姿を消した。
「呼んで来てくれるのかなぁ?」
「さあ、どうでしょう。かなり警戒されているようですから何とも」
奥では何かざわついている気配がするが、莉緒の耳では聞き取ることができない。耳をピクピクと動かして、代わりにムサシが中の様子を伝えてくれる。
「外へ出たことをこっぴどく叱られているようだな」
「さっき『こないだのニンゲンとは全然違う』って言ってたよね、私達の前に他の誰かが来たってこと?」
「大方、害獣駆除に猟師でも入って来たんだろう」
「あー、たぬき汁かぁ。でも、ジビエは臭くて調理が大変だって言うよね」
昔ばなしの絵本で定番の料理。思わず呟いた莉緒のことを、化け狸がおぞましいものでも見る目で振り返る。
「やはり祓い屋は我々の血肉を狙って……」
「ち、違うって!」
うっかり冗談も言えないと、莉緒はムキになって否定する。