「妹とあの子達を連れて、本当にすぐ帰るつもりでいたのよ」
妹が生んだ子供達があやかしと獣との半妖だと知って、真っ先に頭に浮かんだのはかくりよの里で待っているはずの自分の家族への影響。迫害の対象になる禁忌の子を連れ戻ったら、我が子までどんな目で見られるかは分からない。否、家族だけに飽き足らず、一族全員がかくりよから追放されてもおかしくはない。存在を隠し通すには、自分がここに残るしか方法が無かったのだと、母狸は切々と語った。
「妹だけで何とかやれそうになるまでと思っていたんだけどね、そうなる前に息を引き取って……だからって子供だけ置いていける訳もないし」
「あの子達の父親はどうしてるの? 狸って雄も積極的に育児に参加するって聞いたことあるけど」
母の説明に黙り込んでしまった黒毛の子狸に代わって、莉緒が真ん丸のおばちゃんと呼ばれていた母狸に問いかけた。野生の狸は家族単位で行動して父親も子育てすると、テレビか何かでも見たことがある。それとも、子供達にあやかしの血が流れていると何かが違うんだろうか?
「ああ、最初は様子を見に来たりしていたわよ。でも、繁殖期が終わる頃には顔を見せなくなったわ。近頃はさっぱりよ。もう縄張りも変えてしまったのかもしれないわね」
「所詮は野生動物よ」と怒りを露わにした口調で、母狸は妹の伴侶を批判していた。なのにどうして妹はあんなものと交わったのかと、憤っている。けれど、化けることがあまり得意ではなかった妹には、この山の狸との生活の方が気楽だったかもしれないと、やや呆れがちに弁解してみせる。姉としては妹の行動をちゃんと理解してあげたいのかもしれない。
「どんな理由があるにせよ、我が子の世話を途中で放り出したことに違いはないわ。私にはもう、里へ戻る資格なんて無いの……」
背を丸めて俯いてしまった母狸のことを、黒毛の六助は黙って見つめていた。傍で聞いていても仕方ないなと思える理由。それでも母親が家にいないことで、子狸達は周囲から可哀そうな子と囁かれたり、余計な噂話を耳にしたりと、嫌な思いをすることもあったのかもしれない。莉緒は、この化け狸一家と自分の家とをつい重ねて考えてしまっていた。
――子供としては、複雑な心境だよね……
川の方から聞こえてくる、チビ狸達がはしゃぐ声と水音。その無邪気な幼い存在を否定するのは難しい。いつの間にかムサシは川の方へと移動していて、子狸達の水遊びを傍で見守っていた。まるで水辺の監視員だ。
六助は座り込んでいる母狸の前に膝をつくと、その手に風呂敷包みをそっと渡した。かくりよから持参した着物帯と手土産だ。そして、驚いて顔を上げた母親へ、にこりと優しい笑みを浮かべながら声を掛ける。
「兄さん達はおっちょこちょいだから、かーちゃんのことすぐには気付かないかもしれない。だから、姉さんの婚礼にはこの帯を付けてきてよ。それなら皆、かーちゃんだってすぐに分かるはずだから」
「……え?」
「あと、少し前に里に出来た甘味屋のお団子はチビ達にも食べさせてやってくれる? 美味しければ次に来る時に、また買ってきてやるから」
近々執り行われる、姉の婚礼。普段は離れて暮らす兄達も揃って帰ってくる。その祝いの席に母も居てくれたら、みんな喜ぶはずだ。そう言って笑う化け狸の六男の手は、まだ母の物よりも遥かに小さい。それでもその手を母狸は頼もしいと握り返していた。申し訳なさと喜びとがごちゃ混ぜになった黒色の瞳がじんわりと潤んでいく。
「勇気を出して母を訪ねて良かったです」
母と従兄弟狸達と別れた後、来た道を折り返しながら、子狸の六助がぽつりと呟く。最初に出会った一助という茶毛の子狸は結局姿を見せなかったけれど、三つ子達は土産のお団子効果もあってか、帰る頃には「六助にーちゃん」と懐く様子を見せていた。
薄暗い獣道を歩いている時には分からなかったが、目印の六地蔵まで戻って整備された山道へと出たら、朝は微妙に消極的な顔をしていた子狸の表情が今は何だか明るくなっているような気がした。
自分達を置いて他所の子の世話をしていたと知って、子供心にショックが無いと言えば嘘になるだろう。けれど、母狸が抱えている事情を知ったことで、心の引っ掛かりは解け、気持ちにも少しは余裕が生まれたのかもしれない。
「次にお休みがいただけた時は、また訪ねてみたいと思います」
「もう我々の案内は必要ないな?」
「はい。今度は一人で、いいえ、父か兄弟の誰かと共に参ります。祓い屋さんをそう何度も頼っていては、その内本当に尻の毛を引っこ抜かれてしまいそうですし……」
「だから、そんなことはしないって!」とムキになって言い返す莉緒のことを、子狸は悪戯っぽく笑っている。初対面では震えて怯えていたくせに、いつの間にやら軽口がきけるようになったらしい。一応、祓い屋に対しての誤解は解けたみたいで良かったとでも言うべきか。
麓の駅まで戻ってくると、化け狸が乗ると言う反対車線の電車が丁度到着したところだった。ほとんど乗客のいない車両に乗り込んだ六助が、窓ガラス越しに何度も頭を下げているのを、電車が動き出すまでホームから見送った。自分達が乗る車両はしばらく来る気配がなさそうで、莉緒はホームのベンチへ腰を下ろすとリュックからマグボトルを引っ張り出し、残りの麦茶をごくごくと喉を鳴らして飲み干した。冷えた麦茶があまりに心地良くて、思わずふぅっと声を漏らした。