目次
ブックマーク
応援する
2
コメント
シェア
通報

第43話

 老夫婦が住んでいる大きな古い屋敷は、今は畑になっている前庭も随分前は玉砂利を敷き詰め、大きな松の木の植わった日本庭園だった。隠居を機に夫婦でハマったという家庭菜園を広げていった結果、その面影はほとんど消えてしまっている。ただ唯一残っているのが、横庭の古くて大きな池。畑への水やりに丁度良いと残したままの池も、世話をしていた鯉が全て死んでしまった後は、いつの頃からか水生生物が住み着くようになっていて、今ではビオトープさながらの状態で放置されている。


「小さな虫ばかりだから目を凝らしてもよく見えないけれど、それを餌にする鳥が来ることがあるの。スズメやカラスが水浴びしてたりしてね、意外と賑やかなのよ」


 夫が日曜大工で設置したという餌台の上に、庭で採れたミカンを小さく切り分けた物を乗せながら、老女――須藤静枝が笑いながら説明してくれた。お金持ちらしいおっとりとした話し方の可愛いお婆ちゃんだ。

 穏やかな笑顔で、自然との小さな触れ合いが最近の楽しみなのだと話してくれる。


「野鳥だと、来るのは明るい内だけですよね?」

「初めはそうだったのよ。朝はとても早い時間に鳴き声が聞こえてるけど、夜は日が落ちたら巣に戻ってるのかしら。でも、少し前から夜中にも水音が聞こえることがあって……」


 静枝の案内で屋敷の周りを見回った後、莉緒は庭に面する縁側に腰を下ろして苺大福を頬張っていた。甘酸っぱい苺と白あんのバランスが丁度いい上品な味だ。足元で寝そべっている妖狐は、退屈だと言わんばかりに生欠伸を漏らしている。


「夜の池にかぁ。狸とかハクビシンとかの野生動物が水を飲みに来てるって可能性もありそうだけど……」

「私達もしばらくはそう思っていたのよねぇ。ほら、ここは森も近いから」

「でも、違うんですよね……?」


 差し出された湯呑みを礼を言いながら受け取って、湯気の立つ緑茶を口に含む。甘ったるくなりかけていた口の中が一気にすっきりした。


 莉緒がここで依頼者の話を伺っているのには訳がある。静枝が家を訪ねて来た時は和史が直接話を聞いていたが、屋敷の裏が森に面している須藤家には毒蛇ではないものの蛇がよく姿を現すという。


「池の周りは草もあえてそのままにしてるから、何匹かはいるかもしれないわねぇ」


 おっとり口調で静枝がそういうのを聞いて、和史は完全に顔色を失っていたらしい。莉緒も苦手ではあるけれど、父のように発狂したり失神しかけたりはしない。

 他の依頼が立て込んでいると丸っきり嘘の言い訳をして、今日は父の代理という名目で莉緒が直接現地調査に訪れたという訳だ。


「夜中に足音がするのよね。ペタンペタンって、水に濡れた足で歩くような音が。朝になって見てみたら、池の周りは水浸しになってて。――鳥が派手に水浴びしてもそこまでじゃないから、きっともっと大きな何かよね」


 そして、それまでは平然と話していた静枝が、少し怯えるように身体を震わせる。


「びしょ濡れになってもせいぜい池の周りだけだったのに、こないだは玄関の方まで近付いて来てたのよ。あそこには防犯カメラもあるし確認してもらったんだけど、何も映ってなかったみたいなのよ……だからもしかしたら、あまり良くないものなんじゃないかって」

「池から玄関までって、結構ありますよね」

「ええ、私達が気付いてなかっただけで、徐々に近寄って来てるのかもって。そう考えたら、家の中にすでに何かが入り込んでいるような気もして……」


 真っ先に野生動物だと疑って、害獣駆除の専門家に来て貰ったが、特に何の手掛かりも得られなかったのだという。


「屋根裏から何から探して貰ったんだけど、動物の痕跡は見つからなかったそうなのよ。だったらもう、それ以外よねって……」


 過去に保有する不動産のことで先代を何度か頼ったことがあったから、人ならざるものの存在は認知していた。だから、今回も心霊現象かもと藤倉家を訪ねたのだという。

 だけど、屋敷の周囲を見回しても、莉緒には怨霊の気配は何も感じなかった。首を傾げながら足下で寝そべっている式神に視線を送ると、ムサシは面倒だと言わんばかりにふんと短く鼻を鳴らしていた。


「間違いなく、あやかしだな」


 妖狐の態度から、あまり強くない種族なんだろうなと思いつつ、莉緒は持って来ていた護符をバッグから取り出して静枝へと手渡す。東西南北用に一枚ずつ、全部で四枚の梵字護符。


「家の中へ入り込まれないよう、これを玄関や窓に貼って貰えますか」


 結界を張って、人ならざるものを寄せ付けないようにする為の護符だ。和史が書いた物だから品質は保証済み。そして、莉緒は上着のポケットから人形代も一枚取り出して、それを古池のある方角へと飛ばす。目の前をすーっと飛んでいく白色の紙人形を、静枝はほぅっと感心した声を上げて見送っていた。


「あなたのお爺様も同じようなことをされていたわ。何度見ても、不思議なものね」

「あれで池の周りをしばらく見張ってみます」

「でもねぇ、別に毎晩って訳じゃないのよ」


 申し訳なさそうな静枝の一言に、長期戦になりそうな予感がした。莉緒はスマホを取り出して、週間天気予報を確認する。


「雨、降らないといいんだけど……」


 ただの紙だから、紙人形は雨には滅法弱いのだ。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?