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第44話

「あら、おかえり」


 須藤家の視察から戻って来た莉緒達は、着物の上に割烹着を着たミヤビが両袖を肘まで捲り上げ、床に置いた大きな壺に腕を突っ込んでいるのを目撃する。莉緒は慌てて台所へと駆け寄って、壺の中を覗き込んだ。


「ま、また何か、お父さんが封印しちゃってた⁉」


 莉緒が驚き声を上げたのは無理もない。その壺は以前は裏の蔵の中に置かれていて、二十五年もの間ずっと猫又であるミヤビを閉じ込めていたものとそっくりだったからだ。一抱えある陶器製の漬物壺。開けられたばかりの蓋が横に転がっている。


「あれっ、でも、あの壺は割っちゃったはずじゃ……?」


 莉緒がぶつかって割ってしまったことで、壺の封印が解けて猫又は解放された。ということは同じように見えるが別の壺だったかと、ホッと胸を撫でおろす。よく考えたら蔵には似たような漬物壺がたくさん並んで置いてあったし、そのうちの一つをミヤビが運んで来たみたいだった。


「こないだ須藤さんがめっちゃぎょうさん野菜をくれはってな。せっかくやしぬか漬けにしよう思ってん。形は不揃いやけど、上手に育ててはるわー。茄子も胡瓜もものすごい立派や」


 祓いの依頼に来た際に、手土産として家庭菜園で収穫した野菜をお裾分けしてもらったと、ミヤビが嬉々とした表情で壺の中身を取り出して見せてくる。中から出て来たのは封印されたあやかしなどではなく、漬物にされた胡瓜だ。まだ糠床が若いから漬かるのに時間がかかるといいつつも、夕飯用に一本だけ取り出して残りは丁寧に漬け直してから蓋を閉めていた。いつの間に糠床まで用意していたんだろう。よく見ると台所の隅っこには同じ壺がもう一つ置いてあった。そちらは梅干しを漬け始めたところらしい。猫又の家事能力の高さにはいつも驚かされる。


 言われてみれば、須藤家の家の前の畑には沢山の種類の野菜が植えてあった。老夫婦二人で毎日マメに世話しているらしく、どれも青々とした葉を茂らせていて、手前に植えられていたトマトは莉緒の手の平くらいに育っていてビックリした。スーパーでもあんな大きなのは見たことがない。


「うむ、確かに手入れの行き届いた見事な畑だったな」


 居間の座布団の上にのっそりと座り込んだ妖狐が、ついさっき見た家庭菜園を思い浮かべて感心したように言う。


「老夫婦だけではあの広さを維持するのは容易くはないだろう」

「お孫さん達がたまに遊びに来るって言ってたし、手伝ってくれてるんじゃない?」


 実際はそこまで踏み込んだ話はしていなかったから、ただの憶測にしか過ぎない。でも、古池の周りが草だらけだったことを考えると、畑の方には雑草を見かけた覚えがない。畑への力の入れようがよく分かる。


 問題の古池には遠隔監視用にと紙人形を一枚置いて来たが、まだ日が落ち始めたばかりだから動きは無さそうだ。この時間帯は裏の森に戻ってくる野鳥が賑やかなだけだと静枝も言っていた。不審な音が聞こえることがあるのは、人が寝静まった真夜中ばかりだと。


 台所から味噌汁の優しい香りが漂い始め、さっき引き上げたばかりのぬか漬けを包丁で切る小気味よい音が聞こえていた時、玄関の戸がカラカラと開かれ、父親が何やらぶつくさと愚痴を吐いている声が居間にも届いてきた。


「……ハァ、急に降って来て大変だったよ。出る時はあんなに天気良かったから、傘なんて持って行ってなかったし」


 家主の帰宅に真っ先に気付いたミヤビが、タオルを手に玄関へ向かったみたいだったが、「そのままお風呂に入るから」と濡れたまま家の中に上がろうとした和史を叱りつけているのが聞こえてくる。


「もう、アカンって! ほら、そのまま上がるから、廊下もビショビショになってるやん! せめて足くらいは拭いてからにしてんか!」


 お説教レベルが小学生以下だ。ミヤビに怒られて渋々とタオルで足を拭き直した後、お風呂へと直行したらしい和史。雨で身体が冷えてしまったのか、普段よりは少し長めにシャワーを浴びた後、「参った参った」と苦笑いしながら居間へと顔を見せた。


「意外と風もあったから傘があっても意味なかっただろうなぁ」

「そんなに酷い天気だったの? 家に居たから全然気付かなかった……」

「一瞬だけな。多分、今はもう止んでると思うけど、お父さんが帰って来る時はすごかったよ。急に降って来てさ。いやー、参ったね」


 まだ濡れている髪をバスタオルでワシャワシャと拭きながら、居間を横切ってから台所へと向かう。今日は朝からずっと商店街でのアルバイトに出ていたらしく、お腹がペコペコだと言いながら冷蔵庫から缶ビールを一本取り出している。


「お、ぬか漬けかぁ、いいね」


 ダイニングテーブルの上に置かれた小鉢から胡瓜を一切れ摘まんで、口の中へ放り込む。ポリポリと音を立てて噛みながら、満足そうに頷いている。


「それ、須藤さん家の胡瓜なんだって」

「旬の物は新鮮でいい。うまくてビールが進んじゃうなぁ」


 さらにもう一切れを指で摘み上げてから、和史は思い出したとばかりに苦虫を嚙み潰したような表情で莉緒へと聞いてくる。


「で、実際のところはどうだったんだ?」

「須藤さんの家? まぁ、怨霊とかの気配は無かったよ。ムサシはあやかしだって言ってた」

「いやいや、そっちじゃなくて……」

「え、どっち? ――ああ、今日は蛇は見かけなかったよ。でも、池の周りは雑草が伸び放題だったし、出てきそうな感じではあったかなー」


 娘の言葉に、和史が「ヒィッ」と短い悲鳴を上げた。

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