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第46話

 形代の一枚は池の中から飛んできた鉄砲水のような物に直撃し、濡れたせいであっさりと墜落したみたいだった。そして、畑の方へ向かって飛来していたもう一枚は、胡瓜の支柱の後ろから現れた何かの手に不意打ちで掴まれて、地面へと叩き落された。


 まったく別のところを飛んでいた二枚がほぼ同時に攻撃されたということは、庭に潜んでいる何かが少なくとも二体はいるということ。屋根近くで浮遊していた人形を通して、莉緒はそれらの動きを監視し始める。おそらく、この残り一枚のことはまだ気付かれていないはずだ。

 池の方は周りの草に背丈がある上に水中かその周辺に潜んでいるらしく、上からも姿を確認することはできない。けれど、伸びた胡瓜の葉に隠れて畑の中へと移動していく個体は、ちょうど道路の外灯の届く範囲でもあったから植物の間にそのシルエットが見え隠れしていた。


 気付かれないよう後ろから追いかけて、それが何をしているのかとそっと様子を伺う。畑の中にしゃがみ込んで、熟したばかりの真っ赤なトマトへと伸びる手。背丈は小学校低学年ほどで、大きな甲羅を背負い、水かきのある平たい手を持つそれは、頭の上の皿に溜まった水に外灯の明かりを映し込んでいた。紛れもなく、あやかしの姿。


「……河童っ⁉」


 居間で驚いて声を上げた莉緒に、座布団の上で九尾を丸めて横になっていたムサシが当然とでも言いたげに、黙って頷き返してくる。庭に残っていた気配からどんなあやかしが忍び込んでいるのかはとっくに分かっていたと、退屈そうに生欠伸を漏らしていた。


「ヒトの前に姿を見せることもないし、大した悪さはしない種族だ。放っておけばいい」


 問題解決とばかりに前脚の間に顔を埋めて、再び眠り直そうとする。弱いあやかしだからいちいち騒ぐなとでも言いたげだ。妖狐の言葉に、老夫婦に害がないのならいいかと一旦大きく頷いた莉緒だったが、はたと気が付いて首を振った。


「イヤイヤイヤ、おばあちゃんがあんなに怖がってたんだから、このままでいいわけがないよ!」


 人外の気配に悪いモノかもと怯えた表情をしていた静枝のことを思い出す。下手に怨霊の類いの存在を認知しているから、普通の人よりも怖がっているはずなのだ。念の為にとお札を渡してはきたが、それでは納得してもらえないだろう。夜な夜な聞こえてくる不審な水音に、すでに精神的な被害は出ている。河童だから平気ですなんて説明しても、納得して貰えるわけがない。


「大体、何で河童が住宅地におったんやろうな? 河川敷ならまだしも、庭の池に住み着くなんて珍しい」


 莉緒が点けた照明のせいで寝るに寝られないと、猫又が眩しそうに目を細めて首を傾げている。少しばかり歩かなければならないが、大きな川が近くにはある。そこの上流なら川魚なども泳いでいるだろうし、人の目も気にせず穏やかに過ごせるはずだ。なのにわざわざ民家にある小さな池に河童達が現れる理由とは?


 完全に興味を失っているムサシとは反対に、ミヤビが二本の黒く長い尻尾をゆらゆら揺らしながら金色の瞳をキラリと光らせた。これは何かおいしい話の気配がすると、座布団の上で意気揚々と起き上がる。どうも猫又の鋭い勘が働いたらしい。


「なら、直接聞きに行こうやないか」

「え、今から?」

「当たり前やん、河童は夜中しか姿見せへんねんろ? はよせな、逃げられてしまうで」

「え、ええーっ」


 いつもなら「子供が夜更かししたらアカン」と莉緒には口煩く言ってくるくせに、ミヤビは前脚で器用に襖を開けるとスタスタと先に玄関へと向かい始める。ムサシは九尾の半分をパタパタ動かし、気怠げに莉緒達のことを見送るだけだった。今度はついて来る気はないみたいだ。


 家を出る時に見た居間の時計はまだ二十一時半。塾に通っている同級生達は余裕で授業を受けている時間帯。そう考えると別に高校生の莉緒が出歩いていてもまだ補導される心配はないはずだ。ただし、家人の断りなく他所の家に侵入するとなると話は別。遠慮なく門を入っていくミヤビの後ろを、莉緒は恐る恐ると不安げな顔でついていく。


「須藤さんとこからは正式に依頼貰ってるんやし、構わへんって。堂々としといたらええ」

「ミヤビはその姿だから平気かもしれないけど……」


 今のミヤビは猫又のままだから他の人には視えない。莉緒はキョロキョロと辺りを見回して、誰にも見られていないことを確かめる。須藤夫妻が気付かなくても近所の誰かに通報されてしまう可能性だってあるのだ。なんだか後ろめたいことをしている気分になる。


「ホンマや、立派な野菜が大豊作やなー。上手いこと畑してはるわ」


 屋敷の前の家庭菜園を見つけて、ミヤビが感嘆の声を上げている。こないだ貰った野菜はどれも味がしっかりしていて、とても新鮮で美味しかった。ご主人が定年退職した後に始めたにしては、随分と整っている畑に見えた。まるで長年農業に携わっていた熟練の手で作り上げたような。


 莉緒がコソコソしながらようやく庭へ忍び込めた時、ミヤビが「あ、おったで!」と奥に向かって駆け出した。今は月が出ていて周囲も比較的明るいが、それでも全身を黒毛に覆われている猫又の姿はすぐに見失いそうになる。足音も立てず走って行った先は、あの古池の方角だ。莉緒は慌てて後を追った。

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