土曜日の夕方、詩織がバレー部の練習から帰ってくる時間を見計らい、莉緒は妖狐を引き連れて久我家を訪れた。住居の玄関前では、檀家の奥さんらしきおばさんと詩織の母親とが立ち話しているところだった。どちらもエプロンを付けたままだから、ただの井戸端会議中みたいだ。
「あら莉緒ちゃん、いらっしゃい。詩織はさっき帰ってきて先にお風呂に入ってるわ。本堂にお布団は運んでおいたから、好きなように敷いてねー」
「ありがとうございます。お邪魔します」
「今日は二人でお泊り会するんですって」とおばさんに説明しながら、「やっぱり枕投げとかするのかしら?」「女の子ならあれでしょ、コイバナってやつ」などと娘達をネタにして盛り上がり始める。詩織の母親は莉緒が知っている友達のお母さんの中でもダントツに明るくて陽気だ。お寺の奥さんっていうのは社交的でないと勤まらないというのは、詩織からいつも聞かされているがまさにその通りの人。お寺というのは普通の家よりも人の出入りは多いし、法事で沢山の人に気を配らなければいけない。実家もお寺だったという詩織の母親はそういう賑やかな家に嫁ぎたいと、同じ宗派の僧侶だった詩織の父を選んだんだそうだ。
でも、その娘である詩織は全く違うらしく、
「私はお寺なんて絶対にイヤ。どこ行ってもお寺の子って言われるし、良い子にしてるのが当たり前なんだもん」
檀家のお爺ちゃんお婆ちゃんにとって、お寺の子というのは孫みたいな感覚で、勿論とても可愛がって貰えるんだけれど、逆に言うと家の外に出れば常に誰かの目があって、おちおち気も抜けないんだと溜め息混じりに愚痴っていた。
――うちも別の意味で、特殊な家だもんなぁ……
お寺と祓い屋とでは全く違うかもしれないけれど、先祖代々から続く稼業に子供が振り回されるという点では似ている。幼い頃から何となく詩織といると気が楽だなと思うことが多いのは、そのせいかもと莉緒は今更ながらに納得する。そう考えると、莉緒と詩織と一緒にいることが多い美羽は少し変わっているのかもしれない。美羽の家はよくあるサラリーマン家庭で、絵に描いたような普通の家なのに、莉緒達が家の愚痴を漏らしてもいつも驚かずに聞き流してくれるのだから。
砂利が敷き詰められた庭を抜けて本堂の方へ向かう際、隣を歩いていたムサシが耳をピクピクと動かしているのに気付く。やっぱり本堂の奥で感じる何かの気配。莉緒にはまだ何かの正体はさっぱり見当が付かないが、耳と鼻のいい妖狐にはとっくに分かっているはずだ。そのムサシが眉間に皺を刻んで少し難しい表情になっているのだから、きっとあまり良くないものが潜んでいるのだろう。
「ムサシ?」
「……この寺の坊主は、確か入院中と言っていたな? いつ頃に戻ってくるんだ?」
「さぁ、検査が長引いてるから退院はまだ分かんないって詩織は言ってたけど」
莉緒の返答に、妖狐は「そうか」と短く言った後、しばらく黙り込んだ。悪いものが取り付いているのなら何らかの忠告はしてくれそうなのに、特にそれも無い。まだムサシでも判断できないんだろうか?
靴を脱いで本堂へ上がり、木製のガラス戸を横に引いて開けると、畳み敷きの広い座敷の高い天井の蛍光灯が全部点けられていて、こないだ昼間に来た時ほどあまり怖さはなかった。見回すと、隅っこに二人分の布団セットが畳んでおいてあり、横の折りたたみテーブルの上にはお菓子とジュースが用意されていた。夜更かし前提の豪華なお泊り会セットだ。多分、莉緒に祓いの依頼をしたことを詩織は家族には心配かけないようにと伏せているんだろう。
「えらく歓迎されてるみたいだな」
お菓子と一緒に駅前のケーキ屋さんのシュークリームが並んでいるのを見て、ムサシが感心している。ここのケーキ屋はケーキよりもシュークリームの方が人気で、朝の内に行かないと売り切れてしまう。なぜそんなことを妖狐であるムサシが知ってるのかまでは不明だが、とにかく泊まりに来る莉緒の為にわざわざ朝から買いに行ってくれたのだ。
「まあ、詩織とはちっちゃい頃から仲良しだからね」
「幼馴染というやつか」
「うん、お兄ちゃんの祐樹君と三人でよく遊んでたんだよ。ほら、ここって隠れんぼには最適でしょ。あと、ムサシと出会った神社とかでもよく遊んだかなぁ」
祓い屋と寺の娘が神社を遊び場にする。神仏の概念がごちゃ混ぜだが、子供だから当然気にしたこともない。
ムサシ相手に幼い頃の思い出話を語り始めようとした時、住居用の建物と繋がる渡り廊下の方から足音が聞こえてきて、莉緒はムサシに目配せする。白犬に変幻していない今のムサシのことは、詩織には視えない。式神も一緒に連れて来たと言ったら、詩織が不安がるかと思い、今日は気配を消した状態でこっそりと傍についていてもらうつもりなのだ。
「今、誰かと電話してた? 話し声が聞こえた気がするんだけど」
渡り廊下側の戸を開けて、詩織が本堂へと顔を出す。風呂上がりでまだしっとりと濡れている髪をタオルで拭いている。今日は朝から練習試合で丸一日動いていたという割には元気そうだ。万年帰宅部の莉緒とは基本的な体力が違う。
「あー、うん。着いたって家に報告の電話してただけ」
ムサシと話していたことは伏せて、スマホを見せながら適当な言い訳を口にする。詩織は全く疑ってないみたいで、テーブルの上のお菓子を摘み始めていた。
「莉緒、お風呂は?」
「来る前に入って来たよ、あとは歯磨きして寝るだけー」
「そっか。ねえ、布団ってどこに敷こうか? 私も本堂で寝るのなんて、めちゃくちゃ久しぶり」
「そりゃやっぱ、ど真ん中でしょ。こんなに広いんだから!」
下手に隅っこに敷く方がなんか怖いと思ってしまうのは、祭壇の中央に祀られている仏様の顔が真正面が一番優しそうに見えるからだろうか。