広い本堂の真ん中に敷いた二組の布団の上で、ゴロゴロと寝転がってお喋りしていると、思わず今日の本来の目的を忘れそうになる。これだと本当にただのお泊り会だ。ムサシも壁際に積み重ねられた座布団の山の上でまったりと寛いでいるだけに見えた。
「詩織のお父さんの退院って、まだいつかは分からないの?」
さっき妖狐が気にして聞いてきたことを思い出し、詩織に直接確認してみる。多分、何かが好き勝手に暴れているのは法力を持つ住職が今は不在なことが関係しているはずだ。不審な物音がして猫が夜鳴きするようになったのは、全て住職の入院が始まってからなのだから。
「あ、来週には帰って来れるみたい。思ったより大したことがなかったから、あとは薬飲んで通院すればいいんだって」
「そっか、良かったね」
今日ようやく退院の目途がついたという連絡があったらしく、詩織はホッとした顔をしていた。兄の祐樹も得度式は終えているから僧侶として法事を行う資格はあるが、まだ現役の大学生。父の代役は母と二人で分担して執り行っていたみたいだがそれにも限界がある。
「お兄ちゃんのいい加減な読経だと、檀家さんがどんどん離れて行っちゃいそうじゃない? ありがたみも全く無いだろうし」
「まあ、祐樹君は住職ってキャラじゃないしね……」
ホウキを振り回し庭先の灯篭を殴り倒して、先代住職を顔面蒼白にした前科のある祐樹だ。仏教系の大学に通っているから将来は後を継ぐつもりなんだろうけど、昔の姿を知っているだけにあまりピンとこない。
「そういえばお兄ちゃんの大学でさ――」
蛍光灯を消した薄暗い中で喋り続けていたはずが、詩織の台詞が途中で止まる。半身を起き上げて隣の布団を覗き込むと、詩織はスース―という穏やかな寝息を立てて眠っていた。朝から練習試合をこなしてきたのだから、疲れていて当然だ。それに加えて父親の退院日の知らせに安心して気が緩んだのもあるだろう。莉緒も枕に頭を戻して、広い天井を見上げる。遠くでミー太が鳴いている声が微かに聞こえてくる。
カタン
静まり返り、詩織の寝息だけが聞こえていたはずの広い空間に、何かがぶつかる小さな物音。莉緒は耳を澄ませながらも、布団の中で目を瞑って寝たふりを続ける。ただ、そっと右の指先だけを動かし、敷き布団の下に忍ばせておいた人形代を一枚引っ張り出す。それをバレないように畳の上を這わせて壁際まで移動させた後、壁を伝って天井まで登らせると、そこから音がした方角を確認する。
莉緒達の布団が敷かれた外陣と呼ばれる参拝スペースから一段上がった場所。中央にある仏様が祀られた内陣からさっきの音は聞こえてきた。薄暗い中を形代の目を凝らして、祭壇の中を監視する。すると、穏やかに微笑んでいる仏像の脇から、何かがゆっくりと這い出るよう姿を現してきた。
「――っ⁉」
思わず悲鳴に似た声を上げそうになり、キュッと口を閉じる。ガラス戸から漏れてくる月明りに照らされて見えたのは、黒くてぶよぶよした肢体と大きな丸い頭。目から飛び出して垂れ下がった眼球がぶらぶらと顔の前で揺れている。それは重い身体を引き摺るようにズルズル移動して、莉緒達のいる外陣へと降りてきた。そして、畳の上に敷かれている二組の布団を見つけ、怒りに満ちた表情へと変わる。
「罰当たりめぇ……罰当たりめぇ……」
じわじわと近付いてくるそれに、莉緒は身体を硬直させた。隣の布団では詩織が何事もないかのように眠り続けている。もし襲い掛かってくるようならと、莉緒は布団の下の残りの紙人形に指で触れて構えた。
「許すまじぃ……許すまじぃ……」
怨念の籠った唸り声。それが何に対して怒っているのかは分からないけれど、今その矛先が本堂でお泊り会している自分達に向けられているのは確かだろう。足を擦りながら近寄ってきたそれは、眠っている詩織の頭を掴みかかろうと黒い腕を伸ばしてきた。莉緒は咄嗟に右手に触れていた形代達をその垂れ下がった両目をめがけて投げ飛ばす。
形代によっていきなり視界を塞がれたせいで、腕を大きく振り回して暴れ始めたそれが、自分達の布団から離れたの確認すると、莉緒は被っていた掛布団をバッと蹴り上げて詩織を守る為に立ち塞がった。それに応戦するようにムサシも莉緒の隣に駆け寄ってくる。
「あれは塗仏というやつだ」
「塗仏? あやかしなの?」
「ああ、極端なほど信心深いがゆえ、寺や仏壇に取り憑くことが多い。本来は静かな種族なのだが、怒りに任せて暴走することもあるとは聞いている」
妖狐が塗仏と呼んだあやかしは、目玉に張り付いた形代を剥がそうと必死で暴れているが、ぶよぶよした指先では上手く掴めないらしく手こずっていた。
「あぁぁ……罰当たりめがぁぁ……!」
ビリッと鈍い音と共に破れた紙形代を、忌々しいと畳に叩きつけ、塗仏の垂れ下がった二つの目が莉緒の方へと向いてくる。
「罰当たりって、何が⁉ 本堂で泊まるくらい、別にいいでしょ⁉」
檀家の子供達が夏休みのイベントでお寺でお泊り会をすることもあるし、本堂を借りてお葬式をする際は遺族が故人に付き添って前日から泊まり込むことだってあるだろう。ここでの宿泊は別に罰当たりな行為ではないはずだ。
けれど、塗仏は何度も「罰当たりめが」と繰り返し唸り続ける。
「仏の存在をないがしろにして、仏前で好き勝手に飲み食いしおって……許すまじぃ、許すまじぃ」
「別にないがしろになんて――」
好き勝手に飲み食いは、確かに否定はできない。寝る直前までお菓子とジュースを食べてお腹はパンパンだ。でも、仏前ということを忘れた訳じゃないから、ちゃんと後片付けはした。見ず知らずの塗仏に文句を言われる筋合いはない。
「生臭坊主めぇ……毎朝の読経も怠りおってからにぃ……罰当たりめがぁ、生臭坊主めぇ」
今度は莉緒の顔をめがけて腕を伸ばしてくる塗仏。ぶよぶよした手が目の前に近付いて、思わず顔を背けた。