背けた視界の片隅に白毛の狐が塗仏に体当たりするのが見えた。莉緒はハッと振り返って、畳の上に倒れた黒いあやかしを前脚で踏み抑えている式神を確認する。本堂のガラス窓から差し込んでくる月明りの中、大柄な狐が自分の目前を守るように立ち塞がっていた。月光に照らされた狐毛は銀に染まって見えて、この世の物とは覚えない妖しさを放っている。
「へっ⁉」
成人男性並みの背丈があったと思った塗仏を軽々と踏みつけている妖狐。普段はせいぜい大型犬サイズだったはずだが、この暗がりの中で確認できるシルエットは莉緒が見慣れているより倍の大きさはあるだろう。競走馬並みの肢体に九本の尻尾を膨らませているから少し見上げないと顔が見えないくらいだ。
ムサシは妖力によって見た目の大きさが変化するのは知っていたが、ここまで大きく変幻できるとは思っていなかった。
――そう言えば、初めて会った頃は子犬くらいしかなかったのになぁ。
腕で抱えて運べるくらいだった以前を思い出し、少し懐かしくなる。今のムサシは胴に腕を回すことすら難しいだろう。大きな耳と口の迫力に彼が上級あやかしであることを実感する。ビリビリと全身の肌が粟立つほど感じる強い妖力。他の祓い屋達がムサシを欲しがる理由がようやく理解できた。
ムサシに動きを押さえられたまま、塗仏は「許すまじぃ……」と繰り返し、恨みの籠った目でこちらを見ている。手足をバタつかせているが、妖狐の太い足で踏み押さえられていて身動きはとれないらしい。何をそんなに怒る必要があるのかは分からないが、勝手に暴れて物を倒したりされても困る。こっちこそ「許すまじ」だ。
暴れながら恨み節を吐き続ける塗仏は垂れ下がった目玉をぶらりと揺らすと、そのぶよぶよした身体を小刻みに震わせる。するとまるで液体か何かのようにムサシの足下の黒い身体がその厚みを失っていく。
「え、溶けた⁉」
「こやつの身体は水膨れのようなもの。ただ軟体化しただけだ」
スライムのように身体を自在に変化させて、妖狐の足の下からするりと脱出する。ぶよついた身体のほとんどは水。水死体から生まれたという説もあるという塗仏は再び脚を引き摺りながら詩織が眠っている布団へと近付こうとしている。
「詩織……!」
まだ静かに寝息を立てて眠っていた詩織が、「んん……」と短く唸りながら寝返りを打つ。視えないけれど詩織は気配を感じることができる。二体のあやかしのいるこの状況は間違いなく詩織を怯えさせてしまう。
詩織の布団の前に立ち塞がりながら、莉緒は形代を構える。
「許すまじぃ……許すまじぃ……」
徐々に近付いてくる塗仏に、莉緒の額から嫌な汗が流れ出る。明らかな悪意を持った不気味なあやかしが、自分の大事な友達のことを狙っているのだ。莉緒の家庭の事情を理解していて、頼ってくれた詩織のことは必ず守ると決めてきた。形代を構えながら、塗仏の動きに注視する。
「その娘は狐火の力で眠らせてやる。莉緒はそのままそこから動くな」
ムサシの声に振り返ると、眠っている詩織の頭の上に白い炎が揺らめいていた。妖狐が操る青色の鬼火とはまた違って、揺らめき具合によっては黄色にも見える幻想的な炎。さっき目を覚ましかけて身じろいでいた詩織は、また深い眠りについたのか小さな寝息を立て始めていた。
「ありがとう、ムサシ」
「うむ、だが眠りへの干渉はそう長くは持たない。急げ」
式神へ向かって「分かった」と頷き返すと、莉緒は手に持つ紙形代を全て塗仏へ向けて投げつける。一列に並んで飛んで行く紙人形達はあやかしの身体を取り囲むようにして飛び回った。それをぶよついた手で叩き落そうと、塗仏がその場で腕を振り回し始める。目障りな人形達を払い除けようと必死になっている。
莉緒は悲し気な声で、塗仏へと問いかける。
「ねえ、何がそんなに許せないの? ここのお寺、結構ちゃんとしてると思うんだけど」
悪徳坊主なんて言葉はあるが、詩織の父親はそれには全く当てはまらない。まだ未成年の莉緒の目から見ても、誠実で真面目な僧侶だ。檀家からの評判も良いのがその証拠だし、詩織達家族も後ろ指を刺されるような暮らしはしていない。
莉緒の問いに、塗仏は違うとでもいうように丸い頭を大きく振る。垂れ下がった目玉が振り子のように揺れて、その動きでさらに不気味さが増した。
「罰当たりめぇ……罰当たりめぇ……」
「だから何が、罰当たりなの⁉」
「生草坊主がぁ……経も上げず……生草坊主がぁ……」
ハエのように身体の周りを飛び交う形代を、苛立ちながら手で振り払おうとする。塗仏の意識は完全に紙人形を追い払うことに集中してしまっている。莉緒はポケットからお札を引っ張り出し、それをきゅっと握りしめた。
「ここの住職は今、入院中なんだから仕方ないでしょう!」
詩織から父親のことはストレスによる急性胃腸炎だと聞いた。真面目過ぎるがゆえの体調不良だ。今年に入ってからは地域の役員も勤めているというから、疲れが溜まったんだろうと呆れ顔で詩織が言っていた。
「生草坊主がぁ……許すまじぃ……」
塗仏が詩織に向かって「生草坊主」と呼び続けることに莉緒は違和感を覚える。住職に対しての怒りを、後継ぎである祐樹ではなく詩織へ向けているのはどうして? もしやこのあやかしは詩織のことを住職と勘違いしてるんじゃないだろうか、と。
「この子は住職じゃないから! 住職の娘だから!」
塗仏に向かって訴えかけてみるが、聞こえていないのか塗仏が莉緒の言葉へ反応する気配はない。確かに詩織の顔立ちは父親似だけれど、さすがに人間違いされるほどそっくりというほどでもない。
「おそらくまともに見えてはいないのだろう。父親と似た気配を感じて狙っているだけだ」
「だからって、おじさんと間違われるなんて……」
法力のある父親ほどではないが、詩織も気配を感じる力を持っている。その力に反応して、詩織ばかり狙おうとしているのか。