身体の周囲をまとわりつくように飛ぶ紙人形を黒いあやかしは腕を振り回して追い払おうとその場で暴れ続けていた。ぶよぶよとふやけた塗仏の手が紙形代の一枚を畳へと叩き落す。強い力で床へ叩きつけられた人形が、胴のところで二つに裂ける。けれど、そう簡単に残りには触れることができず、あやかしは苛立ちの唸り声を上げた。
「ぐおぉぉぉぉ……」
畳の上を暴れながら右往左往する塗仏が、祭壇や詩織の布団へ近付いていかないよう、莉緒と妖狐は目を見張らせる。国宝級とまではいかないが、古いお寺だから祀られている仏像には地域の文化財としての価値はそれなりにはあるはずだ。それを壊されでもしたらと思うと冷や汗が出る。当然、莉緒の家にそれらを修理や弁償する余裕なんてあるわけがない。ミヤビが怒り狂う顔を想像したら、目の前の塗仏なんて怖くもなんともなくなってくる。
莉緒達の誘導が功を奏し外陣の隅に追いやったはずだったが、形代を振り払うのはキリが無いと気付いて諦めたのか、塗仏は紙人形の存在を無視して詩織の布団へと再び歩を進める。ずりずりと引き摺る足音がすぐ目の前まで近付いてくる。
莉緒は手に持っていたお札を両手の平で挟み込み、念を込めて低い声で唱えた。
「――祓い屋、藤倉の名において、この者の動きを封じる『捕縛』――」
塗仏を囲むように飛んでいた紙形代から、白く細い光が放たれる。その光はまるで縄のようにあやかしの身体を縛り上げ、暴れる肢体を拘束していく。身体は傷付けないが、手足の自由を封じる術『捕縛』。全身を揺らして抵抗するが、塗仏の身体の動きは光の縄で制御される。液状化も許されず、完全に逃れることはできない。
動きを止めることで冷静さを取り戻してくれるんじゃないかと期待したが、塗仏は変わらず恨み節を呟き続けている。
「仏をないがしろにしおって……罰当たりめがぁぁ」
「だから、こっちにも事情があるんだって!」
呻きながら、どうにかして捕縛から逃れようと暴れるのをやめようとしない。無闇に動けば光の縄が身体をさらに締め付けてくるだけ。塗仏には莉緒の言葉は何も届いていないようだ。ムサシが言っていた通り、耳も目もあまり機能していないのかもしれない。
ただ分かったのは、このあやかしは以前は熱心に行われていた住職の朝夕の読経がしばらく途絶えていることを、信仰心のない罰当たり行為だと怒っているようだった。それは住職が不在の今だけで、誤解だといくら伝えても聞き耳を持たない。信仰心の厚さゆえの暴走。それは完全な悪意から始まったわけではないから、歯がゆさを感じてしまう。
「おじさんは明日には退院だって言ってたけど……」
「ここまで頭に血が昇っていれば、坊主が戻ってきたところで同じだろう」
神仏を敬うことは決して悪いことではないはずだ。けれど度が過ぎてしまうのも問題だと、ムサシは呆れ笑っていた。
「こやつは門の向こうへ放り込んできてやろう」
「門って、かくりよの?」
「ああ、あちらで熱くなった頭を冷やさせればいい」
妖狐は身体をさらに一回り大きくした後、塗仏を拘束している光の縄を口でくわえて持ち上げる。そして身体を包み込むほどの長い鬼火を目の前に出現させて、その中へと飛び込んだ。莉緒の前で一瞬だけ大きく左右に揺らいた青い炎は、あやかし達を飲み込んだ後、すーっと何もなかったかのように消えていく。あの鬼火の先はあやかし達が住まう、かくりよへと続く門のところまで繋がっているのだろうか。
莉緒は静かになった本堂の中で、一人でぼーっと立ち尽くしていた。さっきまであんなに騒いでいたミー太ももう鳴き止んだようだ。詩織が気持ちよさそうに眠るすーすーという穏やかな寝息と、庭園から聞こえてくる虫の声。広い本堂の中は穏やかな静寂が広がっていた。
「さぁ、私も寝よっと」
枕の下に忍ばせていたスマホを取り出してみると、まだ日付は変わる前だった。詩織の寝付きの良さがちょっと羨ましくなる。
翌朝、何も知らない詩織から呑気に叩き起こされ、腕の伸ばしながらしぶしぶ布団を蹴り上げた。「休みだからって、寝すぎだよー」という朝っぱらからテンションの高い幼馴染は、住居の方から運んで来てくれたという朝食を折りたたみテーブルの上に並べて莉緒の起床を待っていた。
「ふぁぁ……おはよー」
「ごめんね、私、昨日は気付いたら爆睡してたみたいだね」
「うん、喋ってる途中で寝てたよ。部活で疲れてたんだね」
「なのかなぁ?」
ケラケラと明るく笑う詩織は、本堂の中を改めて見回している。昨日まで感じていたという何かの気配が消えているのに気付いたのか、莉緒の方を驚いた顔で見て確認してくる。
「もういないんだよね?」
「うん、祓ったっていうか、遠いところに追い払ったっていうか……」
後のことは式神に丸投げしてしまったから、上手く説明ができない。けれど詩織は嫌な気配が無くなっているのに安堵の表情を見せた。
「じゃあ、お昼は約束通りダブチーセットだねっ」
「ドリンクはLにするの、忘れないでよ!」
朝食のクロワッサンサンドを頬張りながら、詩織は「もちろん!」と大きく頷き返してくる。本堂の隅っこで座蒲団の山の上に寝転がっていた白狐は、まだ寝足りないとばかりに大きく口を開けて欠伸を漏らしていた。