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第64話

 花屋の二階の窓から漏れている黒色のモヤが一気に外へと出てくる気配はない。きっとあれは家の中を漂う存在なんだろう。隣に立つ和史はタコ焼き屋のエプロンを外しながら、何か考え事をしているようで顔をしかめていた。


「お父さんは、あれが何かが分かってるの?」

「……ああ」


 短い返事だけで、和史は詳しいことは語ろうとしなかった。ただ、父にとってそれは何か思い入れを持つものなんだと莉緒は察した。怨霊となる前にそれが何だったかを父は知っているのだ。


 ――もしかして……


 花屋の二階は店主の住居だと聞いている。間違いなく、女店主と関わりのある存在が暴れているはずだ。中の様子を探るべく、制服のポケットから紙形代を取り出そうとした莉緒の手を、和史は横からそっと抑えて制する。


「視えるからと言って、むやみに視ようとするものじゃない。ここはいいから、莉緒は家に帰ってムサシへ手伝いに来るよう伝えてくれ」

「分かった。お札も要るよね? 何が必要?」

「そうだな、ミヤビに状況を話して適当に用意してもらって」


 そこは適当でいいんだ、と心の中で突っ込みつつ、莉緒は黙って頷いてから自宅に向かった。お札を用意するということはつまり、父はあれを除霊するつもりでいるのだ。父が祓い屋らしく怨霊退治をするところを見るのは初めて。怖さよりも興味の方が上回るといったらきっと怒られてしまうんだろう。


「ああ、ボンが前から気になる言ってたやつやんな。とうとう動き出したんか」


 帰宅してすぐに式神達へと父の言葉を伝えると、ミヤビは心得たとばかりにお札を引き出しから数枚選んで出した。ムサシは生欠伸を漏らしながら渋々と立ち上がる。妖狐にはあまり興味はそそられない、大した案件に感じないらしい。どうもムサシは仕事を選り好みしがちだ。上級あやかしのプライドというやつだろうか。


「ミヤビは知ってたの?」

「まあ、いろいろと聞いてたからなぁ。でも、ボンに封じられるんやろうか……?」

「お父さんが祓うの、一度も見たことない」

「確かにそっちの不安もありそうやけどなぁ。ま、狐を呼んでるくらいやし、何とかするつもりなんやろ」


 何か複雑な事情でもあるのか、ミヤビの歯切れも悪い。父からは家で待っておくように言われていたが、莉緒はムサシと一緒に商店街へと戻った。緊急車両などはすでに撤退した後らしく、花屋の前の人だかりも消えていて、アーケード内には夕方の買い物客と、ここを通り道にしている人の往来がちらほらとあるくらいだった。いつもこの時間帯から商店街の中は一気に寂しくなる。


 父の姿は花屋の店先で見つけることができた。花屋の奥さんを手伝って、生花の入ったバケツを店の奥へと片付けているところみたいだ。奥さんの顔色はまだあまり良くなさそうで、無理しているようなぎこちない笑顔が見ていて痛々しい。


「お父さん」


 店の入り口から顔を覗かせて、莉緒は中で作業する和史へと声を掛ける。店の中へ一歩入っただけで爽やかで甘い香りに包まれた。店先には色とりどりの花が並んでいたが、奥には観葉植物の鉢が華やかなリボンを結ばれて陳列されている。カウンターの上のアレンジメントは注文を受けた商品なのか、ピンクのフィルムで綺麗にラッピングまでされている。

 お世辞にも広いとは言えないスペースの床には、苗が入ったポットが所狭しと置かれていて、ちょっと余所見していたら蹴り倒してしまいそうだ。――と思っていたら、娘の呼び掛けに振り返った拍子に、目の前の父が陳列棚に足を引っ掛けたらしく、騒々しい声を出した。


「うわっ、とっとっと……っ!」


 ガシャンと鉢が割れる音に、「藤倉さん、どうされたのっ⁉」と奥さんが慌てて駆け寄ってくる。


「ごめん、弥生さん……またやってしまった……」


 眉を下げた困り顔で、和史が床に散らばってしまった鉢の欠片を拾い集める。手伝いに来ているという割には邪魔をしているようにしか見えない。奥さんも「あら、またですか」という呆れ顔を浮かべているから、鉢を割ったのはこれが初めてではないんだろう。「本当に申し訳ない」と和史は店主へ向けて平謝りしている。


 このドタバタの状況に、店の中へ入るに入れず莉緒が戸惑っていると、ムサシが隣から鼻先で急かすように突いてくる。さすがに入り辛いとフルフルと首を横に振って、父親が出てくるのを入口で大人しく待つ。しばらくして、自分の失態の後始末を終えた和史が、後ろ頭を掻きながら気弱な表情を浮かべて店先へと出てくる。


「ああ、莉緒も一緒に来たのか」

「お父さん、いつもあんな感じなの?」

「い、いや、まあ……ね……」


 情けないところを見られちゃったねと、恥ずかしそうに笑って誤魔化している。別に父がポンコツなのは今更始まったことじゃない。莉緒は「ふーん」と興味なさげに返事して、ミヤビから預かってきたお札を父へと手渡した。


「じゃあ、私は帰るね」

「お、おう」


 ちょっと長居できる雰囲気じゃないなと、父の祓いの見学は諦めて、莉緒は家へ帰ることにした。ムサシは退屈とでも言いたげに、店の隅っこで身体を丸め始めていた。莉緒は振り返ってもう一度だけ、店内をぐるりと見回してみる。一階の店舗では特に何の気配は感じない。問題はやはり二階の住居の方みたいだ。

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