一通りの処置を終えて、ドラコさんは部屋から出て行った。
人間のことに詳しくないであろうドラコさんは、全く気がつかなかったようだが――私は、いわゆる転生者である。
この世界に転生する前の私は、ごく普通の日本人だった。
料理とお菓子作りが好きで、キッチンカーを出店するのが夢で。
大学の友人と一緒に計画を立てて、研究して、資金を集めて、ようやく念願叶って営業を始めることができる――その前日のことだった。
転生した原因は、まさによくあるラノベみたいな展開。
ボールを追いかけて公園から飛び出した子供をかばって、トラックにはねられてしまったのだ。
とっさに思い切り突き飛ばしたけれど、あの子供は無事だっただろうか。
一緒にキッチンカーを営業する予定だった友人は、今、どうしているだろうか。
もう、それを知る術は持たない。
ちなみに、自分が転生者だということに気がついたのは、昨日のことだ。
アデルさんが言ったように、頭を打ったのが原因かも知れない。
転生前の記憶はぼんやりしていて、はっきりと思い出せないこともたくさんある。
そのうち思い出すのかもしれないし、普通の人は前世の記憶なんて持たないのだから、このまま忘れてしまうのかもしれない。
それよりも、だ。
どちらかというと、今、問題なのは――、
「……傷が治ったら、私、どうなるのかな」
森の奥で、人との関わりを絶っているアデルさんのことだ。最初に私が想像したように、人買いに売られることは、ないだろう。
ただ、少なくとも、彼らは私に、ここから出ていくことを望むはずである。
けれど……私には、帰る場所がないのだ。
かと言って、荷物もお金も持たず、身一つの私が、頼れる人もなく見知らぬ土地で暮らすことなんて、できっこない。
元々住んでいたファブロ村の村人たちは、私が帰ったところで、受け入れてくれないだろう。それどころか、追い返されるに決まっている。
彼らは、今年の長雨も、それによる洪水被害も、全て私のせいだと思い込んでいるから。
――もちろん、そんな訳はないのだが。
「こんなことになるなら、去年、人助けなんかしなければよかった……かなあ。ううん、でも私には、黙って見てるなんてできなかったわ」
昨年のこと。
ファブロ村は、長く続く日照りによって、干ばつに苦しんでいた。川は涸れ、大地はひび割れ、ため池はもはや底が見えてしまっていた。
周囲に他の街もなく、農作を主として自給自足の生活を送る村人たちにとって、不作は生死に直結する問題である。
そして、私には、干ばつによる被害を解消することができる『力』があった。
「普通の人は、自分の理解が及ばない、不可思議な物事を恐れる……のよね」
たとえそれが無害であっても。むしろ、自分の命を救ったとしても。
特に、ファブロ村は、その傾向が顕著だった。
なぜなら、彼らは、国家間の『魔法戦争』による被害者であり、魔法の力が及ばない場所へと逃げてきた移民たちだから。
彼らは魔法の力を持たず、力ある者を恐れ、憎んでいる。
私も、「魔法を使ってはいけない。村で生きていけなくなる」と母から口酸っぱく言われていたため、それまでずっと、魔法の力を隠して生きてきた。
けれど、村人たちが苦しんでいるのを見過ごすことなんて、私にはどうしてもできなかったのだ。
実際、村は本当にぎりぎりだった。私がこの『力』――水の魔法を使わなかったら、水不足と飢饉で死者が出ていたかもしれない。
「精霊様……、どうして私を選んだのですか」
尋ねたところで、答えが返ってくることはない。
精霊は人に加護と『力』を与えてくれるが、その人間のそばにいるわけでも、好きに話ができるわけでもないのだ。
気まぐれで、けれど、人なんかよりもずっと遠く、過去や未来をも見通す存在。それが、精霊たちだ。
「精霊の加護……そういえば、アデルさんも……」
私は、自身が迫害される前に村の大人たちから聞いていた話を、思い出す。
◇
帝国からの移民たちが腰を落ち着けた地は、山に囲まれた盆地で、人里からは離れていた。
少し歩けば大きな河川、ファブロ川がある。ため池を作ってファブロ川から水を引き、家を建て、原野を開墾して田畑を耕し、人々は数年かけて新天地を手に入れた。
作物が実りをつけるまで、人々は、狩りをしたり食べられる野草を探して生活していたという。そんな中で、川を下っていった先に広がる肥沃な森に目をつけたのは、当然のことだった。
その森には、先住民がいた。
自然を愛し、精霊に愛され、森と共に生きる者たちだ。
果物、木の実、きのこや山菜。
森は恵みに満ちていたが、先住民たちは、移住者たちの立ち入りを拒んだ。
移住者たちも、森に溢れる、人と共に暮らす異形たちの姿を見て、一目散に逃げ出したという。
移住者たちは『精霊の力を持つ者』と妖精たちを怖がり、関わりを避け、他の場所で食糧を確保することにした。
そうして最初は、移住者たちも先住民たちも、互いを刺激しないよう、それぞれの領域を侵さず穏やかに生活していたようだ。
しかし、ある時。
その均衡は、あっけなく崩れた。
田畑が拓かれ農作物が実をつけ始めた頃のこと。村への移民が、爆発的に増えたのである。
周辺諸国で、国家間の『魔法戦争』が終盤に差し掛かり、攻撃が激化していたのだ。そのため、安全を求めて多くの移民たちが村を訪れたのである。
その中には、魔法の力は持たないものの、血気盛んな若者たちも含まれていた。
彼らの、やり場のない怒りと恐怖。それは、力ある者たちへの憎しみとなり、暴力に形を変えた。
そして、彼らのもたらす暴力の行き先は――当然、かつて自分たちを追い詰め迫害した者たちと同じ、『魔法の力』を持つ者だった。
頭数は、移民たちにかなりの分がある。彼らは一斉蜂起し、魔法を使う者たちが住む森――『魔の森』に攻め入った。
一人、また一人。
血気盛んな移住者たちの数の暴力に追われ、先住民たちは姿を消した。
そして、唯一この地に残ったのが、火の精霊の加護を受け、強い力を持つ
彼は、逃げるように魔物の
移民たちは
白い炎は侵入者たちを阻む壁となり、彼らを追い払い、そのまま森の外周を囲うように燃え広がり続けた。
炎の壁を無理矢理越えて森に足を踏み入れようとする者があれば、たちまち炎は高く熱く燃え上がり、何人たりとも森へ入ることはできなくなった。
そして、白炎の向こう側に佇むのは、凶悪なドラゴンと、凍れるほどに美しい、一人の少年――。
◇
これが、村に伝わる、魔の森と
十年以上も前のことだったと聞いているが、もしそれが本当なら、アデルさんはまだ本当に幼い頃から、一人で森に暮らしていることになる。
「同じ人間には恐れられ、精霊と妖精に愛される、孤独な人……か」
私はアデルさんの過去を思い、自分の境遇を重ね合わせる。
彼の受けた心の傷は、私なんかよりずっと深く、苦しいものだっただろう。
「もしかしたら、話せば、わかってくれるかもしれない。けど……」
同じように精霊の力を持ち、迫害を受けたとはいえ、私も人間だ。それも、ファブロ村出身の。
彼にとっては、私は疎ましい存在に映っているかもしれない。
「……でも……」
それでも、私は――。
「うん。ちゃんと話をしてみよう」
私はそう決意して、テーブルの上にある空のグラスを手に取った。水差しは重いから、まだ持ち上げる気にならない。
水差しから水を注がなくても、私の思うがままに、グラスの底からは冷たい水が湧き出してくる。
ひんやりとした水を口に含み、喉を潤すと、私は再びベッドに身を沈め、物思いに耽ったのだった。