果物をフルーツナイフで剥きながら、私はドラコさんの話に耳を傾ける。
「レティシアも知っているかもしれませんが、アデルは人間の世界を捨てて、この森で暮らしているです。アデルは今年で二十一歳。一人になったのは十歳になる前のことでしたから、もうかれこれ十年以上になります」
「噂は、聞いたことある」
移住者たちが、森に住むアデルさんの一族を恐れて攻め滅ぼしたという噂が本当なら、彼は、想像を絶するほど辛く苦しい日々を送っていただろう。
規模も期間も違えど、『魔法の力を持つ者への迫害』という共通の体験をした私には、彼の気持ちが少しだけわかる……と思う。
「アデルさんは……復讐を望まなかったの?」
「……きっと、心の中では、望んだと思うです。けれど、彼は、そうしなかったです。やったのは、人を近づけないために、森の外周に炎の結界を張ったことだけ」
「復讐できるだけの力があったのに?」
「アデルは、それを成せる力があっても、それを成せる心を持っていなかったです」
虐げられたら……普通は、まず安全なところに逃げたくなるだろうと思う。そして安全を確保できたなら、今度は、加害者を何とかしたいと考えるのではないか。
謝ってもらいたい。考えを改めてもらいたい。それから……色んなものを返してもらいたい、と。
過激な人だったら、それだけではなく、その先も考えるだろう――それこそ、帝国から逃げてきた移住者たちのように。
けれど、アデルさんは、それを実行に移さなかった。
成さなかった、ではなく、成せなかった。
「優しい人、なのね」
「それだけじゃない。アデルは、臆病な人なのです。傷つきたくない、これ以上他人と関わりたくない……そうやってアデルは、心を閉ざしたです。そうすれば、理不尽が心の柔らかいところをつつくこともない」
「心を守るために……十年以上も」
「ドラコは、人間になろうと頑張っているです。人間と同じようになれたら、アデルのそばで、いつか凍った心を溶かしてあげられるのではないかと。でも、でも……ドラコは、人間のことを知らないのです。ちゃんと人間になりたいのに、全然人間になれないのです。ドラコでは、アデルを笑わせることはできないのです」
「ドラコさん……」
ドラコさんは、話すのをやめて、うつむいてしまった。
私はドラコさんに声をかける代わりに、手に持っていたものをお皿に置いて、目の前にすっと差し出す。
「これは……?」
皿の中央にはしゃりしゃりとした氷を、山のようにふわっと盛り付けてある。
周りを彩るのは、先程ドラコが持ってきてくれた色とりどりのベリー。
そして、氷の山の中央には――、
「これ、ドラコですか……?」
私は微笑んで、頷く。
氷の山の頂きを飾るのは、ドラコさんを模したフルーツカービング……先程まで作っていた、りんごの飾り切りである。
「すごい……チャームポイントのちっちゃなツノも、翼もあります」
「食べてもいいんだよ。りんごだから」
「も、もったいないです!」
「ふふ、いくらでも作ってあげるよ。あ、そうだ、こっちも」
私は、もう一つの飾り切りを、ドラコさんを模したものの隣に置いた。
難しかったけれど、長い髪もローブも、きちんと表現出来たと思う。
「よかったら、二人で食べて。シロップがないから、甘味が足りないかもしれないけど」
「……これはきっと、いえ、絶対に喜ぶです。レティシア、ありがとうです!」
黒い瞳はきらきらと輝きを増し、その声も弾んでいる。
ドラゴンの表情はあまり読めないが、きっとドラコさんは笑っているのだろう。
「ドラコさん、あの……アデルバートさんに、ごめんなさいって、伝えてもらえないかな。その、親切でお薬を塗ってくれようとしたのに、突き放してしまって……」
「もちろん、伝えるです。泥舟に乗ったつもりでいてくれです」
「泥舟……」
どちらかと言うと、大船に乗りたいのだけれど。
しかし、私が訂正しようと口を開く前に、ドラコさんは続けた。
「それから……ドラコさん、じゃなくて、ドラコ、でいいです。友達には、『さん』は要らないです」
「友達……?」
私は、ぱちぱち瞬きをした。
ドラコさん――ドラコは、ぱたたと翼をはためかせながら大きく頷き、にししと笑った。
じわじわと、嬉しさが胸に広がっていく。
「えへへ、友達かぁ。――そうだね、ありがとう、ドラコ」
「にししー。ありがとうです、レティシア」
「ふふ。あのね、私、村の人に疎まれる前……、お母さんとか、親しかった人は、私のことレティって呼んでくれてたの。だから、ドラコも、レティって呼んでくれたら嬉しいな」
「にしし、了解です、レティ! じゃあ、早速アデルのところに持って行くです」
ドラコは、嬉しそうにお礼を言うと、お皿を両手で持つ。そしてそれをこぼさないように、二本の足でしっかり慎重に歩きながら、部屋を出て行ったのだった。
「ふふ、友達、か」
私は笑ってもう一度呟くと、余ったりんごを口に運ぶ。
甘く爽やかな果汁が溢れ出て、傷ついた心身に染み渡るような心地がした。