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1-10. なくてはならない大切なもの


 レティ視点に戻ります。


――*――


「――起きているか?」


 ノックの音と共に、アデルさんの声が聞こえてくる。


「はい」

「入っても?」

「どうぞ」


 入室を許可すると、アデルさんは静かに扉を開けた。私はベッドの上に身を起こす。


 アデルさんの澄んだ紅い瞳と、私の青い瞳。

 視線が交わった瞬間――彼はなぜか足を止め、耳を赤くした。

 彼はすぐに目を逸らし、少しだけ顔を背ける。その拍子に、長い黒髪がさらりと垂れた。


「あの……」

「……いや。座ってもいいだろうか」

「はい」


 アデルさんはそのままベッドサイドに椅子を持ってきて腰を下ろす。

 彼は再び私の顔を見て、ほんの少しだけ目を泳がせてから、口を開いた。


「今朝は……すまなかった。俺の配慮が足りなかった」

「い、いえ、いいんです。その……こちらこそ、ごめんなさい。アデルバートさんは命の恩人なのに」

「ああ……いや」


 部屋に、沈黙が落ちる。

 気まずい。こういう時にどう切り出したら良いのか分からない。

 それはアデルさんも同じだったようで、静かな部屋でしばらく無言が続く。


 体感的には数分、けれど本当は多分数秒間。彼はようやく口を開いた。


「……先程の果実と氷の皿だが」

「は、はい」

「とても美しく、素晴らしい一皿だった。ドラコも喜んでいたよ。ありがとう」

「喜んでいただけたなら、よかったです」

「ああ」


 そう言って、アデルさんは目を細め、わずかに口角を上げた。

 彼の表情が緩むところを初めて目の当たりにして、私の心臓がどきりと音を立てる。


「君の、飾り切りの技術は素晴らしいな。たくさん練習したのだろう?」

「ええ。村の人たちの喜んでくれる顔が見たくて、凝り始めたら止まらなくなってしまって」


 きっかけは、母に教わって覚えたうさぎの形の飾り切りだった。

 村に住む同世代の子どもたちにそれを見せたら、他の物も作れないかとリクエストされて、色々と試行錯誤を繰り返しているうちに上達していったのだ。


 それに、村には木工職人の子が一人いて、競い合うように腕を磨いていたことを思い出す。

 木と果物。彫刻刀とフルーツナイフ。材料も道具もそれぞれ違ったものの、彼から学んだ技術もたくさんあった。


「でも……」


 しかし、私の秘密を知られてからは、その友人たちとの交流も、なくなってしまった。


「……最近は見せる人も競い合う人もいなかったから、久しぶりだったんですけど。上手くできてよかった」


 私は寂しさを振り切るように、アデルさんに微笑みを向ける。

 アデルさんは、ほんの少しだけ、気遣わしげに眉をしかめた。


「――レティシア。君は……」


 私に何かを尋ねかけたアデルさんの言葉は、途中で止まった。

 言葉を探しているけれど、宙に彷徨って見つからない……そんな雰囲気だ。

 私は、柔らかく微笑んだまま、頷いて彼の言葉を待った。


「……君は、水の精霊の加護を受けているのか?」

「ふふ、やっぱり気づきましたよね」


 結局彼が選んだ言葉は、単刀直入なものだった。

 私としても、回りくどいのは苦手なので、ちょうど良い。


「正確には、私に加護を下さっているのは、六大精霊である水の精霊様ではなく、その眷属……泉の精霊様です」

「泉の精霊?」

「はい」


 私は頷いて、サイドテーブルに置かれていた空のグラスに指を向ける。

 そのまま空中でくるくると指先を回すと、グラスの底から、泉のように水がどんどん湧き出てくる。


「……!」


 アデルさんは、瞠目どうもくしている。彼の加護は『火』だから、水の魔法にはあまり馴染みがないのだろう。


 最後にパチンと指を鳴らすと、カラカラと小さな音を立てて、水の上に氷が浮いた。

 今回の氷は粒状ではなく、大きめのキューブ型である。


「この通り、魔法で湧き水を呼び出すことができるんです。寒冷地の凍った泉から、氷を好きな形状で切り出すこともできます。けど、飲用の熱湯は出すことができません。なんでも、熱い温泉水は、不純物が多くて、飲用には向かないみたいで」

「ほう。便利な力だな」

「はい、私もそう思うんですけど……でも……」


 そこまで言って、私は、口を噤んだ。

 思い出したくないことを思い出しそうになって、私はうつむく。


「――そのように無害に思える力でさえも、人は憎悪するのか?」

「…………」


 私は、返事をするかわりに、さらに深くうつむいた。


「君は……、川に落ちたと言ったな。それは、事故だったのか? それとも――」


 そこで、アデルさんの声が、一段低く、鋭くなる。

 私は、ぶるりと身震いをして顔を上げた。


「――誰かに手を下されたのか?」

「……っ」


 真紅の瞳から、目が離せなくなる。

 それはとても澄んでいるのに、底冷えするような何かを孕んでいて――、


「……事故、だと思います。よく覚えていなくて……」


 ――私は、答えを誤魔化したのだった。


 沈黙が、場を支配する。

 聞こえてくるのは、暖炉の火が小さく弾ける音と、遠くで鳴いている何かの声。

 ちりちりと刺すような視線がずっとこちらに向いていたが、ややあってそれはふっと外された。


「……君がそう言うのなら、今はいい」


 アデルさんがぽつりと呟き、空気に満ちていた緊張は、霧散した。

 私は小さく息を吐く。


「レティシア。もう気づいているだろうが、俺は……人間たちが、『凍れる炎帝』フリージング・ブレイズと呼ぶ存在だ」


 アデルさんは、眉を寄せ、不快そうに自らの二つ名を口にした。その呼び名は、彼にとって不本意なものなのだろう。


「――ドラコから聞きました。でも、噂って当てになりませんね。話に聞いていたのと、随分違うから」

「違う、とは?」

「だって、アデルバートさん、優しい人でしょう」


 氷刃のように冷酷無慈悲な炎使い。

 魔の者たちも彼を恐れて平伏する。


 そんな噂は、嘘だ。

 彼は、傷ついた私を拾って、治療を施してくれた。

 私を心配して、優しい言葉をかけてくれた。


 それに――ドラコは彼を恐れているのではない。慕っている。

 ドラコがアデルさんに取る態度は、アデルさんの人柄をそのまま表していた。


 彼とまともに向き合ったことのない、赤の他人が下した評価なんかよりも。

 私は自分の直感を、そして、初めてできた妖精の友達の想いを、信じたい。


「……優しい? 俺が?」

「はい」


 私は、自信満々に頷いたのだった。



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