私は、眉をしかめているアデルさんに向かって、改めてはっきりと言い直す。
「アデルバートさんは、優しい人だと思います」
私がそう述べると、彼は心底驚いたような表情で、目を瞬かせた。
「レティシア、君は、俺が怖くないのか?」
「最初は正直、少し怖かったです。なにせ、状況がわかりませんでしたから。けど……お話ししてるうちに、考えが変わりました。今は、全然怖くないです」
「俺が――」
アデルさんは、眉間に皺を寄せて、右手のひらを上に向けた。
「――こうやって、君を害したらどうする?」
アデルさんがそう言った瞬間、ぼうっ、と音を立てて、手のひらの上にオレンジ色の小さな火の玉が生まれる。
だが、それと同時にぶわりと吹きつけてきたそよ風は暖かく、熱いほどではない。
私は少し驚いたものの、彼が本気ではないことがわかっているからか、やはり全然恐怖を感じなかった。
「アデルバートさんは、そんなことしません。それに――」
私も、彼に倣って、左の手のひらを上に向ける。
私の左手の上には、小さな小さな水球が生まれた。
「私、こう見えて、一応料理人なんです。料理人は、火を怖がったりしません」
私は右手の指先で、水球をつん、とつついた。
水球はふよふよと炎に近づいて行ったかと思うと、ぱしゃりと弾ける。
「火も、水も、人が人らしく生きていく上で、なくてはならない大切なもの。そう、思いませんか?」
「……!」
窓から差し込む光と、そこに灯る暖かなゆらめきに、細かな霧状の水滴が照らされて。
私とアデルさんの間に、きらきらと輝く七色の小さな橋がかかった。
「……ふ」
アデルさんは気勢を削がれたように吐息をこぼし、口端を小さく上げる。それと同時に、右手の上に浮かべていたオレンジ色の火の玉を消した。
笑顔とまでは言えないけれど、彼の表情筋は確かに緩んでいて。
初めて見せてくれた、彼の柔らかな表情に、私は思わず見とれてしまう。
「君は、不思議な人だな」
「そうですか……?」
「ああ。今まで会ったことのないタイプの人間だ。興味深い。少なくとも――」
アデルさんは椅子から立ち上がると、ベッドの上に身を起こす私のすぐ横まで、歩み寄る。
彼は手を伸ばしたら触れられる距離で立ち止まると、身をかがめて、私の顔を覗き込んだ。
「――俺を優しいなどと言う者は、ドラコを除いて初めてだ」
深紅の瞳が私の青を射貫く。美しく澄み切った瞳と、人離れした美いかんばせが、すぐそばに――。
恥ずかしくなってしまい、私はアデルさんから目を逸らした。
「人間は、信じられないものと思っていたのだが」
アデルさんが、じっと私を見つめているのを感じる。
暖炉よりも暖かな光が、周囲に満ちていく。ぽわぽわと、柔らかな熱が灯り始めた。
――というか、比喩ではなく、本当に室温が上がっている気がする。
「君は、どうかな」
アデルさんは、私の方へと手を伸ばす。
目を逸らすな、と言うように。
アデルさんは私の顎に指をかけて、自分の方を向かせた。
私の顔に、急速に熱がのぼってゆくのを感じる。
「レティシア」
アデルさんの、壮絶な美貌が目いっぱいに広がる。彼は、甘えるような色を含ませた声で、私の名を呼んだ。
吐息すらも届きそうなその距離に、酸欠になったみたいにくらくらとする。
「……は、い」
私が細い声でかろうじて返事をすると、アデルさんは、満足そうに目を細めて頷いた。
「なるほど」
何に納得したのかさっぱりわからないが、アデルさんは私の顎から手を離して、そのまま身を起こす。
私はようやく緊張から解放されて、息ができるようになった。まだ心臓がバクバクいっている。
「あ、あの……?」
私から少し離れて無言で佇む彼の周りに、ぼんやりとした白い光の玉が、ぽつりぽつりといくつも浮かんでいるのが見えた。
光の玉も、アデルさんの操る炎の一種なのだろうか。あたたかくて、優しい光だ。
私が手を伸ばして光に触れると、ぽう、とわずかな熱を残し、光は消えてしまう。この白い光が、室温を上げていたのかもしれない。
アデルさんはそれを見て、再び満足そうに頷いた。
「レティシア。君のことを、信じてみようと思う」
「え……本当に……?」
「ああ。だが、まずは早く傷を治さないとな。その後のことは、君と相談しながら、また改めて考えるとしよう」
「……!」
アデルさんの言葉を聞いて、私は目を見開いた。
――彼は、傷が治った後のことも、気にかけてくれるというのだろうか。やはり、彼は優しい人だ。
アデルさんは後ろを向き、そのまま部屋の入り口へと向かっていく。私は、その背に向かって慌てて声をかけた。
「あのっ、アデルバートさん。何かお礼をさせて下さい」
「……もう、すでに貰っている。それより、今は身体を癒やすことだけ考えろ」
アデルさんは、昨日の夜と同じように、振り返ることなくそう告げる。
しかし、その口調も、空気も、昨日とは打って変わって、確かな温度が宿ったものだった。
扉が閉まると、部屋のあちこちに浮かんでいた白い光が、少しずつ空気に溶け消えていく。
最後の一粒が、私の手のひらに舞い降りてきて、そのまま静かに消えていった。
手の上に、あたたかな余韻を残して――。
――――第一章 恵みの森の果実 fin.