アデルさんと対話をして、彼がやはり優しい人なのだと確信した翌日。
カーテンの隙間から、柔らかな朝の光が差し込んでいる。
――今日で、川原で倒れていたところを助けられてから、三日目だ。
昨日とは違って、巨鳥エピオルニスの鳴き声で起こされることはなく、かわりに弾むようなノックの音で目が覚めた。
「おはようございます、レティ!」
「ドラコ、おはよう」
元気な声と共に部屋に入ってきたのは、ドラゴンの妖精ドラコだった。
ドラコは薬箱を尻尾にぶら下げ、小さな翼を動かしてぱたぱたと空を飛んでいる。両手には、フルーツが乗ったバスケットを抱えていた。
ドラコは両手の荷物をテーブルに置くと、器用に着地し、薬箱を尻尾の先から外す。
「体調はどうですか? 熱は下がったですか?」
「うん、ありがとう。お薬がとってもよく効いたみたいで、だいぶ楽になったよ」
「ふふん、恵みの森の薬草は特別製、舐めてもらっちゃ困るです。この家の倉庫には傷薬に熱冷まし、お腹のお薬に解毒薬、夜に使う秘密のお薬までキッチリバッチリ揃ってるです!」
「へえ、そうなんだ。すごいね」
ここには医師がいないから、森に生えている薬草から作った薬でなんとかするしかないのだろう。色々と揃っているようだ。
最後の秘密というのはよくわからないが、睡眠薬のことだろうか。よく効くから秘密とか?
話してしまったら秘密にならない気もするのだが。
「ところで、一人で歩くのはまだ無理そうですか?」
「どうかな。ちょっと待ってね……よいしょ」
私はサイドテーブルに手をついて立ち上がろうとするが、やはり手足やお腹に力を込めると、強い痛みが襲ってきた。ドラコは慌てて手を貸そうとしたが、私はその前になんとか立ち上がる。
「――っ、まだ痛むけど、頑張れば大丈夫そう」
「でも、とっても痛そうなお顔です。レティ、無理させてしまってごめんなさいです」
「ううん、いいの。それに、立ち上がりさえすれば、歩くのは平気そうだわ」
私はドラコににこりと笑いかけ、部屋の中をぐるりと歩き回る。少しふらふらするが、長時間でなければ歩けそうだ。
「すごいです! この調子なら、明日、一人でも大丈夫ですか?」
「明日? 何かあるの?」
「実は明日、ドラコはどうしても外せない用事があって、家を離れないといけないのです。それに、時間によってはアデルも留守になるので」
「そうなんだ。でも、私なら平気だよ。ありがとう、ドラコ」
ドラコにお礼を言ったが、同時に申し訳ない気持ちになり、私は顔をうつむかせた。ドラコはぱたりと翼をたたんで、私の顔を下から覗き込む。
「どうしたですか?」
「……私、すごく迷惑かけてるな、って」
「そんなことないですよ」
「ううん。自分でもわかってるから」
私は、弱々しく微笑んで、再びベッドに腰を下ろす。
さっきは歩けるとドラコに言ったが、実際はこんな短時間でも疲れてしまうのだ。とても情けない。
「レティ」
ややあって私に呼びかけたドラコの声は、すごく優しいものだった。私は顔を上げる。
「昨日、たった一日で、ドラコはびっくりしたことがたくさんあったです。何だと思うですか?」
「え?」
突然の問いかけに、私は首を傾げた。
氷のことだろうか。それとも、飾り切りのことだろうか。
私が思案していると、ドラコはふふん、と空中に浮かびながら、腕を組んだ。
「まず、一つ。ドラコに、初めて人間の友達ができました」
「……!」
私は驚いて、ドラコを凝視する。ドラコは目をきらきらさせている。きっと、笑っているのだろう。
アデルとは主従関係だから、私が初めての友達、ということになるのか。
「それから、もう一つ。アデルが、レティとお話しして戻ってきた時、とっても嬉しそうな顔をしていたです。そんな顔すごく久しぶりだったから、ドラコは本当にびっくりしたです」
「アデルバートさんが……?」
ドラコは、にしし、と笑って頷いた。
「もちろん、りんごの飾り切りも、シャリシャリする氷も、びっくりしたです。でも、何よりびっくりしたのは、凍り付いていたアデルの心の端っこを、レティがほんの少し溶かしたことだったです。それも、たった一日で」
「ドラコ……」
私はドラコの言葉に、涙が出そうになり顔を歪めた。ドラコは慌てて、翼をぱたぱたと
「わ、わぁ!? どうして泣くですか!? ドラコ、何か気に障ること言ったですか!?」
「ううん、違うの。これは、嬉しくて泣きそうなの……」
「に、人間は、嬉しくても泣くですか? 新たな発見です……」
私は、眉尻を下げたまま笑う。ドラコはふよふよと空中を漂いながら、短い腕を上げて、頭を抱える仕草をした。
「ねえ、ドラコ。私、もっとアデルバートさんのお役に立てるかな?」
「アデルの話し相手になっているだけで、充分役に立ってると思うですけど」
「でも、もっと、何かできることはないかな。私、こんなにお世話になってるんだもの。ちゃんとお礼がしたいの」
「うーん、そうですね……」
ドラコはうんうんと唸っていたが、突如ピンときたようで、指をぴっと立てた。
「そうだ! だったら、お料理番になったらどうでしょう!」
「え?」
「レティ、料理が得意なんでしょう?」
私は目を瞬かせた。確かに料理は得意だが、これまでアデルさんはずっと、自分自身で料理をして、問題なく暮らしてきたはずだ。料理を作る程度のことで、ちゃんとしたお礼になるだろうか。
「レティは昨日、ドラコにこう言ったです。『美味しいものを食べると、人は笑顔になる。トゲトゲが抜けて、心に余裕が出来て、喧嘩しててもどうでも良くなったりする』――レティは、料理で誰かを笑顔にしたいんですよね?」
「ええ……そうね、確かに言ったわ」
私が言った言葉を、ドラコは一言一句間違えずに覚えていたようだ。
それに、その時、ドラコからも『アデルを笑顔にしてほしい』と頼まれていたのを思い出す。
「だから、アデルのお料理番に立候補するです。それでアデルと、ついでにドラコに、美味しい料理を作るのです!」
「お料理番……!」
「この森には、果物以外にもたくさんの恵みがあります。お野菜、きのこ、豆類に穀物だって。植物の恵みがもたらすものなら何でもあるですよ。珍しいお野菜も幻のきのこも、たっくさん採れるです」
「め、珍しいお野菜……! 幻のきのこ……!?」
私はその言葉に思わずつられてしまった。
確かにこの不思議な森なら、前世でも今世でもお目にかかれなかったような食材に、出会えるかもしれない。
ドラコはキラキラとした目で、私を見つめている。友達の期待を込めた眼差しを受けて、私の決意も固まった。
「よし、乗ったわ! 私、頑張って美味しいお料理、振る舞っちゃう!」
「にししし! やったですー!」
「そうと決まれば、その前にキッチンとか食材とか見たいわ! ああ、どんなお野菜があるのかしら……!」
人が入れるほど大きなティターンカボチャとか、帝国南部でしか採れないベルメールヤシの実とか。前世でも高級食材だったトリュフや松茸、今世では見かけたことのない米やワサビなんかもあったりしないだろうか。
私の想像はどんどん膨らんでいく。
「さすがレティ、やる気満点ですね! でも、その前にアデルの許可を取ってくるです。ちょっと待っててくださいです!」
「ええ、よろしくねドラコ」
「任せるです! それで、あわよくば……レティがずっとこの森で、お料理番をしてくれたら、アデルも……」
「えっ? 最後、なんて?」
あわよくば、の後に続いた言葉が、ごにょごにょと小声になってしまってうまく聞き取れなかった。私は、こてんと首を傾げて、ドラコに尋ね返す。
「な、なんでもないです。とりあえず、アデルが出かけちゃう前に、急いでキッチンと食材を使う許可をもらってくるです!」
ドラコは手を横に振って慌てた仕草をする。そして、そのまま大急ぎで部屋を出て行ったのだった。