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2-7. 憂いの消えた笑顔



 喜びを灯したルビーの瞳。優しく細められた目元。柔らかく弧を描く唇。

 きめ細やかな白い肌にさらりと流れる、濡れ羽色の艶やかな長髪。

 ほのかに頬紅を刷いたように染まるかんばせ。


「……!」


 アデルさんが明確に見せてくれた笑顔に、思わず息が止まりそうになる。


「恩返しとは、異なことを言うものだ」


 喉の奥で笑っているような、楽しげな声だ。けれど、私には、彼の発した言葉の意味がわからず、首を傾げた。アデルさんは笑みを深めて、続ける。


「前にも言ったが、礼ならすでに充分貰っている。だから、今度は俺が今回の料理の礼をしないとな」

「え……お礼なんて、そんな。私は命を助けていただいたのに」

「俺の気が済まないんだ。妖精たちの世界は、原則、持ちつ持たれつの等価交換。一方的に何かを与えられることに慣れていなくてな」


 私は、やはり彼の言っている意味がよくわからなくて、反対側に首を傾げた。


「私……何かお礼、しましたっけ?」

「ああ」


 心当たりがないことを正直に告げるも、アデルさんはすぐさま頷いた。

 だが、今回の料理以前にお礼なんてした覚えがないし、そもそも私は命を救ってもらったのだ。こんな大恩、本来だったら一生かけても返しきれない。


「ところで、これからのことなのだが。君は、傷が治った後、どうしたい?」

「あ……えっと」


 そう問われて、私は、言いよどんでしまった。


 ――私には帰る場所がない。

 今更ファブロ村に戻っても、村人たちは、私を受け入れてはくれないだろう。


 かといって、村の外に知り合いもいない。

 母の居場所がわかっていたら、母を頼ることもできただろう。父がもし生きていたとして、どこの誰なのかを知っていれば、仕事や住居の斡旋ぐらいはしてくれたかもしれない。

 けれど、母は行方不明。父はそもそも、顔も名前も、生きているのかどうかさえ知らない。


 私はうつむいて、黙り込んでしまった。


「正直に答えてほしい。君は、元いた村に帰ることができないのだろう?」

「……はい」


 私は、視線を下に向けたまま、首を縦に振った。


「――レティシア。どうか、顔を上げてくれないか」


 優しい声に、私はゆっくりと顔を上げた。澄み切った深紅の瞳が、私をじっと見つめている。


「君が望むなら、俺は、君がしばらく恵みの森に住んでも良いと思っている。君が外に出る準備が整うまで、この家にいてくれて構わない」

「え……?」

「条件は、もちろんある。君がこの森を、精霊や妖精たちを、傷つけないこと。それから、森の一員として、何でもいいから、この森のために仕事をすること。その二つを守りさえすれば、恵みの森は、喜んで君を受け入れるだろう」


 私は、信じられない気持ちで、アデルさんを見つめ返す。アデルさんは、柔らかく目を細めて、頷いた。隣に目をやると、ドラコも食事の手を止めて、首を何度も縦に振っている。


「いいんですか……? 私がここにいたら、迷惑になりませんか?」

「迷惑になどなるものか」

「そうですよ! ドラコも、レティなら大歓迎なのです!」


 アデルさんもドラコも、即答した。


「でも……、どうして、見ず知らずの私を信じて下さるんですか……?」

「君が、浄化の白炎に焼かれなかったからだ」

「え?」


 ぽう、とアデルさんの手の上に、小さな白い光が灯る。

 昨日、かき氷をドラコに渡した後、アデルさんとお話しした時に見た光と同じものだ。


「この白き炎は、世界樹を通じて精神世界アストラルへ作用する、特別な炎。害意や敵意、嫉妬、欺瞞、利己心……負の感情に満ちている者へ苦しみを与える、浄化の炎だ」

「浄化の白炎……この、綺麗であたたかな光が?」


 ぽう、と優しい光を放つ白い炎。私は手を伸ばして指先で触れてみたが、やはり熱さなんて感じない。


「この炎は、森の外周に張っている結界の炎。一昔前に、簒奪者さんだつしゃたちをこの森から追い払った炎と同じものだ。欲にまみれ、他者を害することをいとわない者にとっては、身を焼かれるのと同じか、それ以上の苦しみを与える」

「実際、あの時はアデルがこの白炎の力でもって、人間たちを森から追い払ったのです。炎に触れた者はみんな痛い苦しいって絶叫しながら、一目散に逃げていったですよ」


 その時のことを思い出したのか、アデルさんもドラコも、沈痛な面持ちになる。

 きっと、身を切られるような、胸が塞がるような思いだっただろう。

 ――もちろん、欲に駆られた卑劣な人間たちではなく、アデルさんたち一族のことだ。


「……昨日は、何も言わずに君を試すようなことをして、すまなかった。君は精霊に愛されているようだから、大丈夫だろうとは思っていたが――俺は、君を傷つけていたかもしれなかった」

「いえ、そんな……。アデルバートさんの事情を考えたら、私を試すのは、当然のことです」


 私が首を横に振ると、アデルさんは安心したように、表情を緩めた。


「実際に白炎に触れてもびくともしない人間を目の当たりにしたのは初めてで……嬉しく思うと同時に、君を信じてみようと思ったんだ。だから――」


 アデルさんはそこで一度言葉を切ると、ゆっくりと、丁寧に、再び先ほどと同じ言葉を紡いでいく。――わずかに瞳を揺らしながら。


「――君が望むなら、好きなだけ、この森に滞在してもらって構わない。それで、この料理への礼になるだろうか?」


 望外のお礼だ。今の私にとって、これ以上ないありがたい申し出である。


「……駄目、だろうか」

「……っ、いえ」


 私が返事もせず声を詰まらせていたら、アデルさんは不安そうに眉尻を下げた。私は急いで答える。


「すごく……、すごく嬉しいです……! ぜひ、しばらくの間、ここに住まわせてください!」

「……! そうか、わかった」

「わあい、やったですー!」


 頭を下げて、改めて私からお願いをする。アデルさんの安堵の声と、ドラコの喜ぶ声が、頭上から降ってきた。

 私が顔を上げると、そこにあったのは、はしゃぐ妖精の姿と、憂いの消えた美しい微笑みだった――。


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