――それこそが〈畢罪の花〉なれば。
〜
* * *
――ふと、ノアが気が付いたそのとき……自分という存在そのものを根底から蝕むような、あの恐ろしいまでの寒さは遠のいていた。
しかしだからと言って、その他の感覚が戻っているわけでもなく……。
全身ともかく曖昧で、ぬるい湯にぷかりと浮かんでいるような感じがした。
意識もまた同じだ。
もやがかかって、どこかぼんやりとしている。
だが、現実感とでも呼ぶべきものは、何かしら肌で感じ取れていた。
だから、これが死後の世界などではなく――。
あの死の恐怖を振り切り、何とか生き延びたことぐらいは理解出来た。
(もし俺が死んだら、ナビア、どうしてたかな……)
涙に目を腫らした妹の顔が思い浮かぶ。
もし自分が死んだら、後を追おうなどと考えるだろうか。
もし、
(……そんなわけ、ないか)
……今なら分かる。
かつてナビアは、病気で死線をさまよった。あの恐怖を味わった。
なのに……それでも不老不死を否定し、ここまで来たのだ。
小難しい理屈を並べて、もっともらしく理由を掲げていた自分より、よっぽど深く死を理解し――そしてそれを、よっぽど強い意志で受け止めていたのだ。
だから、自分が死んでも。
悲しむばかりじゃなく、もっと強く、大きくなるはずだ――。
(……ああ、そうか――)
ノアはようやく、ちゃんと理解出来たんだな、と感じた。
――遅ればせながら、自分も。
(これが、死を看取った者が受け取るものなんだ。
死を迎えた者が、送るものなんだ)
――そうして命は、繋がっていくんだ……本当の意味で。
――応接室とも休憩室とも取れる部屋には、大きなソファに身じろぎ一つせずに座るカインと、彼の膝を枕に、泣き疲れて眠るナビア……そして、壁際に立つグレンがいた。
施術室を出た
一同を見回し、ふう、と一つ溜め息をつく。
「どうです碩賢。
治療は――上手くいったんですか」
険しい顔で投げかけたグレンの問いに、碩賢は大きく頷いた。
「無論じゃよ。
……さすがに、今しばらくは治療用カプセルを出られんがな」
いかにも一仕事終えた、とばかりに肩をぐるりと回す碩賢。
そうして彼は、改めてカインに向き直り――。
その幼い外見にはおよそ似つかわしくない、遠くを見るような目で微かに……穏やかに、笑いかけた。
「……とまあ、そういうわけじゃが。
安心したか、カイン?」
カインは、いまだ戸惑いの消えない表情で……。
しかしまっすぐに白衣の少年を見つめ、小さく一つ頷いた。
……碩賢の指示を受けたグレンに導かれるまま、人工湖北岸にあるこの研究所にノアを運んでから、待ち受けていた当の碩賢が慌ただしく手術に入ったため、これまではっきりと確かめる余裕はなかったが……。
間違いなく、目の前にいる少年こそ、自分の知る碩賢なのだと――カインは実感していた。
「……本当に、あなたは……あの碩賢なのだな」
「それはこちらの台詞じゃよカイン。
もう一度、こうして会えるとは思わんかった。……久しいのぅ」
碩賢は小さな両手で、カインの手を包むように握った。
カインも、頷いて握り返す。
「――それで碩賢。
ノアは、不凋花については……」
慎重な声音でカインが尋ねると、碩賢は微苦笑まじりに手を離し――。
大袈裟な動きで、肩を竦めた。
「実にいい笑顔で断られてしまったわい。
妹に負けるわけにいかない……とな。
――ともあれ、顔を見せてやるといい。
今は技術も発達したからな、術後とはいえ話すぐらいは問題ないぞ」
* * *
……その部屋は、素人では使用目的など想像もつかない機器が居並んでいて――ここが小さいながらも、立派な研究施設の一室であることが分かる。
その中央に座し、大小さまざまなケーブルが伸びる、ベッドというよりはまるで揺り籠のような形状のカプセルに横たわるノアは。
傍らに立つカインから、彼が思い出した……彼自身が死に至るまでの、遠い遠い過去の物語を聞くと――。
小さい声で「そうか……」と呟いた。
「何か……色んなこと、納得出来た気がするよ」
……そう言いながら、ノアは感覚を確かめるように――。
『左腕』を持ち上げ、拳を何度か握ったり開いたりを繰り返す。
一見すると普通の腕と変わらないそれはしかし、つい今しがた数時間に及ぶ手術で、碩賢によって取り付けられた義手だった。
不凋花の恩恵がある
「……じーさんには感謝しないとな。
応急処置だけでも良かったはずなのに、俺が改めて不凋花を拒否することを考えて、こんなものまで付けてくれたんだから」
「具合は、どうだ?」
「ちょっともどかしいかな。
まあ……いくらぱっと見で生身と変わらないくらい出来がいいって言っても、機械式だからさ。
さすがに、元の身体と同じようにはいかないみたいだ」
「……すまん。私をかばったばかりに」
深々と頭を下げるカインに、ノアは笑って義手を振った。
「気にしないでくれって、さっきも言ったろ?
手だってどうせすぐに慣れるし、それに……。
つらい思いはしたけど、おかげで……大切なことが、本当の意味で理解出来たみたいだしさ」
再度、謝罪を口にしそうになるのを堪え――。
今度は礼とともに、カインはもう一度頭を下げた。
「それで……おじさん、これからどうするの?
箱形をした機器の上に腰掛けていたナビアが、そう言ってカインを見上げる。
目を伏せたカインは、そのまましばし沈黙の中にいたが……。
やがて、ぽつりと口を開いた。
「きっとあの日、ウェスペルスに敗れるのも自明の理だったのだろう。
あのときから、未だに私は……弱いままなのだ」
「……弱い……?」
「――そうだ。
私の記憶、その最も大切な部分は、ただ失われていたのではない。
私が、私自身が――。
無意識に心の奥底にしまい込み、見ないようにしていただけなのだ」
カインはゆっくりと瞼を開く。
今度こそ、自ら霧の奥に隠していた記憶と――。
己の為すべきこと、向かい合おうとするように。
「ノア、ナビア。
お前たちを護るよう、私に願った者がいた――その話は覚えているか」
「ああ。出会った頃にした話だよな。
――そうか……それが、春咲姫だったんだな」
「でも……あたしたちを連れ戻したがってた春咲姫が、護ってって……変じゃないかなあ?」
ノアは「違う」とばかりに、カプセルから伸ばした手を振った。
「……そもそもカインが甦ることなんて知りもしない春咲姫は、そう……多分、旧史で言うところの神様にお祈りするみたいに、俺たちの無事を願ったんだ。
俺たちが何事もなく無事に
だけど……当のカインは、実体のある身として甦った。
だから、そこでズレが生まれたんだ。
実際、俺たちにとって連れ帰ろうとする人間は障害だったし……カインもまた、俺たちと同じ不死を否定する人間だから、なおさらだったんだな」
「……そういうことなのだろう。
だが……今なら分かる。
死の闇に沈んでいた私を、こうして引き上げたのは、あの子が託したもう一つの――。
私が記憶の隅に隠し、目を背けてきた……もう一つの願いの方なのだ」
「もう、一つ……?」
兄妹の問いかけに、カインはやや間を置いてから、意を決したように口を開いた。
「――あの子は願った。
お前たちこそが正しいのなら。自分が過ちを犯しているのなら――人の命を歪めてしまったというのなら。
自分に、罰を与えて欲しいと。
死を――与えて欲しい、と」
兄妹は息を呑む。
二人ともその瞬間は驚きしかなかった。
しかし次第に、カインが無意識に記憶の隅に隠していたという意味が、自分を弱いと言った理由が、理解出来てくる。
そしてノアは――。
古城へ向かう際の、車中での春咲姫とのやり取りを思い出していた。
「春咲姫が……実はずっと自分の在り方に疑問を抱いていたってのは、俺たち、本人から聞いたんだ。
けど、そうか……あのとき春咲姫が言い淀んだのは……。
そんなことまで願ったなんて、さすがにあの場で俺たち相手に――いや、きっと……誰にも言うわけにはいかなかったんだ」
「――待ってよ、それじゃ……おじさん。
おじさんは、これから、春咲姫を……?」
不安げに見上げてくるナビアに、カインはゆっくり……。
しかし、しっかりと頷きを返した。
それは、実の娘である春咲姫の命を――。
延いては、彼女を通して不凋花を受け入れている、庭都の住民すべての不死を絶つ……という宣言でもあった。
「……先に話したように私には、不凋花を守護者から奪った責任がある。
そして、オリビアが不死になるのを止められなかった責任がある。
人の世が、こうして自然の摂理から外れる、そのきっかけとなった――罪がある。
現在の人類、そのすべての命を預かる娘をこの手にかける――。
その最後の大罪をもって私は、これまで重ねてきた罪の贖いとしなければならないのだ。
そのためにこそ私は――こうして、死してなお、ここに立つのだから」
カインの語りぶりは、自らに言い聞かせるかのようだった。
いや、実際カインはそうしたのだ――。
今度こそ、自分の為さねばならないことから、目を背けたりしないようにと。
そして、業深き自分が、死してなお生かされている理由、それは罰であるはずだと――。
そう常々感じていた通りの、世界そのものから課せられたこれ以上ないほどの罰を。
今こそ、甘んじて受けなければならないと……覚悟を決めるために。
「もっとも……ノア。
お前が、やはり死にたくはないと、不凋花を受け入れる覚悟を決めていたならば……私の決意は、また揺らいだかも知れないがな」
「……そっか」
こんなときではあったが、その一言を、ノアは素直に嬉しいと感じた。
自分が誰かにとって、それだけ重みのある存在だと認められることが……純粋に誇らしいと思えた。
「でも、おじさん……。
おじさんは、春咲姫のお父さんなのに、そんなの……」
ナビアが、沈痛な表情を隠すことなくカインを見上げる。
カインの言い分は理解しても、感情が付いてこないのだろう。
そんな妹にノアが……優しい目を向け、諭すように告げる。
「親だからこそ、やらなきゃいけないことなんだよ。きっと」
「……お兄ちゃん」
「もしかしたら……。
俺たちが生まれてきたのは、それを見届けるためだったのかもな」
ナビアは黙って兄の顔を見上げる。
「まるで、これが人の歴史の終わり、限界なんだって言うみたいに、子供が生まれなくなった庭都。
そこに俺たちが生まれたのは……人の世の終わりを見届ける、そのため――そのとても大切な役目を果たすためなんじゃないか、って。
……そう、思うんだ」
兄の言葉をゆっくりと受け止めて、静かに考えて――。
ナビアは、小さく頷いた。
「……うん。うん……そうだね……。
ずっとずっと生きるなんて……間違ってるから。
それが分かってても、あたしは、お兄ちゃんみたいにはっきりとした答えを出せなかったけど――。
不老不死ってことを意識しなきゃ、みんなあたしたちと変わりなく見えたから、どうしても言えなかったけど。
でも……そうだね。
このままこの先、どれだけの時間が過ぎても、もうそれは歴史じゃないんだね。
色んな人たちの命と想いが積み重なってできる『歴史』じゃないんだね。
進むことも、戻ることもしない――ぽっかり空いた、穴なんだ」
「そうだ。だから……カイン」
ノアは、真っ直ぐな瞳で、改めてカインを見据えた。
「アンタと出会ったことも、きっと偶然なんかじゃなかったんだろう。
……俺たちが、見届ける。
だから――歴史が終わってしまっていることに気付かず、ただそこにある生にしがみついて、夢から抜け出せなくなった人類に……死の事実を告げて欲しい」
ノアはナビアと目を合わせ、互いに異存はないことを確認し、力強く頷く。
「どんな形であれ、こうして今まさに存在している人間の終わりを願うのが罪だって言うなら……これもまた罪だって言うなら。
人類の最後の罪として、俺たちも一緒に背負っていく。
だから……カイン。
形骸になり、終わりを見出せなくなった人類に――」
そこで一度言葉を切って、ノアは目を閉じた。
そうして何度も自らに問い直し、その意志を確かめる。
何度も何度も、揺らぎも迷いも怖じ気も残さないよう問い直し――そして。
磨き抜かれた覚悟を、ついに口にした。
「どうか……すこやかで安らかな、滅びを」
目尻からこぼれ、頬を伝い落ちる、一筋の涙とともに――。