――彼女に会うまでの僕は、この世に存在しているだけで、生きてはいなかった。
ただ、この世に在ろうとする身体の欲求と、大人から与えられる命令に従って……。
そのための、最善の行動を取り続けるだけ。
他の同じ境遇の仲間たちのように、殺すことへの嫌悪も、死ぬことへの恐怖もなかった。
なぜなら――僕には、心が無かったから。
動物でさえ心を持っているのだから、動物に劣り――。
かといって、完全な機械ほど、徹底した便利な存在でもない。
人なのに人になりきれないから、結局何者でもない――。
それが、僕だった。
だけど、彼女が――オリビアが。
本人はそんなつもりは露ほどもなかったのだろうけど、僕に、心を与えてくれた。
何者でもなかった僕に、人としての生命を、吹き込んでくれた。
僕にとっては、それがまさしく彼女だった。
――彼女の存在なくして、僕という人間はありえない。
だから僕は、何よりも、ひたすらに彼女を――。
その命を、心を。護ろうと努めた。
それは僕にとって、生き甲斐なんて言葉すら生温い……。
まさに、生きる意味そのものだった。
だから――。
「――どうして? お兄ちゃん、どうしてパパを死なせたのっ?
ねえ、どうして……ッ!」
……彼女の非難は、僕を打ちのめした。
彼女の慟哭は……即ち、そのまま僕の慟哭でもあったから。
だけど僕は、それを甘んじて受けなければならない。
僕はこうして責められることを承知で、彼女とカインを天秤にかけたのだから。
彼女にとってカインという存在は、自らの命と同等か、それ以上に大切なことを承知の上で、僕は――彼女を選び取ったのだから。
僕や仲間たちにとっても父親のようだった彼を――この手に、かけたのだから。
「ねえ、どうして……っ! どうしてなの……!」
僕に縋り付き、小さな拳で胸を打ち、泣き濡れる彼女に、僕はかける言葉を持たない。
思いをすべて打ち明け、赦しを乞うことも出来るだろう。
けれど――それで軽くなるのは、僕の心だけだ。
そしてむしろその分、彼女は自分のせいだと自らを責め、その心を傷付けるだろう。
もっとも、聡明な彼女のことだ――僕が何も言わずとも、既にその理由には思い至っているかも知れない。
だけどそれならなおさら、僕はそれを口にするわけにはいかない。
言わなければ、彼女はこうして、僕に思いの丈をぶつけることが出来るから。
理に適うかどうかなんて関係なく――。
ただ、沸き上がる悲しみの捌け口に出来るからだ。
……今思えば――。
初めて彼女と言葉を交わしたとき、僕の口からこぼれ出たのは謝罪だった。
だけど今回は、あのときとは違う。
その一言こそ――発することは許されない。決して。
――ごめん。ごめんよ……。
だから、僕は――せめて心の中で、そう応えるしかなかった。
――その日も、彼女は礼拝堂で、父親の棺の前にいた。
1週間もすると彼女は、感情のまま、僕を面と向かって非難することはしなくなっていた。
だけどそれは、僕を赦したからというわけじゃない。
あの日よりは、多少なりと心が落ち着いてきたから……というだけのことだろう。
現に、1ヶ月が過ぎようという今になっても、彼女は僕に声をかけようとはしない。
近くにいても、たとえようがないほど何とも悲しく、痛々しい目を向けるだけ。
けれどそれもまた、僕の望んだ道だった。
肉体が不老不死になろうとも、精神をそれに付き合わせるのは容易ではない。
だからこそ、心の刺激、感情が大切になる――碩賢はそう言っていた。
そして、憎しみもまた感情であり……情動の一部を担うに足るものであると。
だからこそ僕は、彼女の不凋花を受け、不死となった。
憎まれ、疎まれようとも――それで彼女の助けになるならと。
父の仇として在り続けることが――彼女の生きる力の一つになるならと。
……もっともそうなると、彼女の心の安寧のためにも、これまでのように側に居続けるわけにはいかないだろう。
だけど……距離が遠いなら遠いなりに、彼女を護るため、力を尽くすことは出来る。
それに何より――カインとの約束がある。
彼女を護り続ける、永遠の重荷を決して一人で背負わせはしない――という、約束が。
――そんな決意すべてを、彼女に語るわけにはいかない。
だけど、せめて最後に別れは告げておこうと……僕は、背を向ける彼女に近付いた。
僕の存在に気付いていたのだろう、名を呼ぶと彼女は、さして驚くこともなく振り返った――いつものあの、見ていてつらくなる、悲痛な眼差しで。
「オリビア……今日はお別れを言いに来た。
僕はもう、決して、君の前に現れることはない」
いくら僕を疎ましく思っていようとも、その感情は別にして、さすがに驚いたのだろう。
オリビアは、大きく目を見開いていた。
「僕がしたこと……言い訳はしない。
だから、この先も……僕を憎んでくれて構わない」
「……お兄ちゃん」
「――さようなら、オリビア。
君のこれからが、いつまでも、幸せなものでありますように――」
挨拶を長引かせては、何より僕の方が未練がましくなりそうだった。
だから、簡潔にそれだけを告げて、早々に立ち去ろうとした。
「……れないよ……」
だけど、オリビアの何事かを呟く声が、僕の足を止めた。
最後に、恨み言でも何でも、思いをぶつけたいというなら――。
それを受けるのも役目だと思って、僕は振り返る。
果たして、そこにあったのは……泣き顔だった。
そんなことはあるはずもないのに――。
僕にはそれが、彼女と初めて言葉を交わしたときの……あの泣き顔と重なって見えた。
「……なれないよ……! 幸せになんてなれないよ!
お兄ちゃんまでいなくなったら、幸せになんてなれるわけないよ……っ!」
「オリ、ビア……?」
「――憎めるわけないよ!
悲しいし、つらいけど……!
怒ったり、あたったりもしたけど……!
でも……でも、お兄ちゃんを憎むなんて……!
そんなの――出来るわけないよぉ……っ!」
大粒の涙をぼろぼろこぼし、しゃくり上げながら……。
オリビアは確かに、思いをぶつけてきた――僕の予想とは、正反対の思いを。
「お兄ちゃんだって、パパのこと好きだったのに……!
なのに、わたしのためにパパと戦って……!
でも気を遣って、そんなこと一言も言わなくて……!
お兄ちゃんだって悲しいはずなのに、つらいはずなのに……いつまで待っても、そんなこと言ってくれなくて……!
だからわたし、なんて慰めればいいか、謝ればいいか、分からなくて……っ!」
――そうだった。
ああ、僕は……なんて愚かなんだろう。
オリビアが人を憎むなんてこと、出来るはずもないのに。
それを生きる力にするなんてこと、あるはずもないのに。
本当に、なんて愚かなんだろう。
あの日の泣き顔と重なるはずだ――。
僕はあの日と同じく、彼女に責はないのに、態度でそれを勘違いさせて――。
そう……同じ過ちを、繰り返していたのだから。
僕はオリビアに一歩近付くと、そっと小さな頭に手を置いた。
「……ありがとう」
そう言うのがやっとだった。
彼女の慈愛を前に、それ以上の言葉が思い浮かばなかった。
だけどそれだけで、オリビアは僕の思いを察してくれたのだろう。
俯き加減に近寄り……。
僕の僧服の胸元を、両手でぎゅっと握り締める。
「じゃあ、約束して……!
ずっと一緒にいてくれるって。側にいるって……!
わたしを、一人にしないって……!
もう……もう、これ以上、大切な人が居なくなるのは嫌だから……っ!」
涙ながらの訴え。
それに対する、僕の答えは決まっている。
「分かった、約束する。
――いや……誓うよ。
何があろうと、ずっと僕は――君の傍らにいると」
――言葉は所詮、言葉でしかない。
だけど僕は、そこから少しでも心が伝わるようにと――。
出来うる限りの思いと力を込めて、そう告げた。
――そうだ、誓おう。
僕は、彼女の向こう――カインの眠る棺に目を向ける。
この先ずっと、僕は彼女の側にあり、助け、護り続けると――カイン、あなたにも。
オリビアを頼むと……そう託してくれた、あなたにも。
改めて、誓おう――。