――赤く染まった陽の光は、刻一刻と、地平線の彼方に終息していく。
周囲がぐるりと特殊ガラスで覆われているため、空にそのまま浮かんでいるかのようで――。
しかし造りそのものはこじんまりとした、質素で素朴な屋内庭園。
そこは、
彼女のための、彼女らしい小さな庭。
しかし今――その中央、備え付けの白い椅子に腰掛ける
――
「何を見ているんだい?」
西の空――。
沈みゆく太陽を眺めていると思っていた春咲姫の視線が、僅かにそこからずれていることに気付き……。
ただ一人、傍らに控えるウェスペルスは、何気なくそう尋ねた。
「……うん。あなたを」
春咲姫の返事に、改めて少女の視線を追い……ウェスペルスは意味を理解する。
その視線の先。
昼と夜の境界で、一段と明るく空に輝くのは……『宵の明星』だった。
知識として知ってはいながら……しかし却って、自らの名の由来になっているがゆえに、これまで特に意識して見ることもしなかった星――。
「あなたは、自分には相応しくない名だ、って言ってきたけど……」
「……ああ」
「やっぱりわたしは……あなたより似合う人はいないと思うな」
「……そうかな」
小さく首を傾げるウェスペルスに、春咲姫はこくりと頷く。
「太陽と月、昼と夜の間――。
そんな風に、大きな何かと何かの間で、揺れて迷う……。
そんなわたしの足下の道を、照らし続けてくれた……あなただから」
「……オリビア、君はいつも僕を買い被るね。
だけど……ありがとう」
微かに苦笑しつつも、ウェスペルスは素直に礼を言う。
どんな形であれ、この少女の役に立っていたというのなら……彼にとって、それ以上の喜びはないのだから。
「もうそろそろ……かな」
春咲姫は、唯一階下へと通じる螺旋階段の方に、視線を移す。
「……そうだね。
……答えながら、ウェスペルスは1000年前の嵐の夜を思い出す。
あの時とは、様々な事柄が異なっているものの――。
結局、その本質においては……これはあの日の焼き直しなのだろう、と。
カインと再び
それは望外の喜びであると同時に、悲しみでもある。
彼にとって、そして何より……春咲姫にとって。
「――オリビア、僕は……」
もう一度、しかも目の前で、父親を殺す――。
実際に、甦った死者が人と同じように死ぬのかどうかまでは未知数だが……それでも、血に染めることに変わりはないのだ。
彼自身は既に、何があろうとも……と、覚悟を決めた身だ。
だが、春咲姫は果たして大丈夫なのか。
今一度、意志を確認しようとすると――。
「ウェスペルス」
それを遮るように――少女は、心持ち大きい声で彼を呼んだ。
「……パパとはもう、1000年も前にお別れを済ませてあるんだよ。
だから、わたしのことなら気にしないで。
それに――。
これから起こることから目を背けずにいるのは……義務なんだと思うから」
「……分かった。もう聞かないよ」
少女の中にもまた覚悟があることを、ウェスペルスは改めて思い知る。
今日が、あの嵐の夜の焼き直しなのだとしても――。
臨み来るカインの決意は、きっとあのときの比ではないだろう。
――最愛の娘どころか、自分を殺すことにすら躊躇いが見えた、あのときとは。
……だけど、それでも――負けるわけにはいかない。
ウェスペルスは、そっと拳を握り締める。
かつて、カインの心臓を刺し貫いた……その拳を。
「ねえ、ウェスペルス」
秘めやかに決意を固めるウェスペルスに、春咲姫は声をかける。
彼は、ともすれば激戦の予感に高ぶりそうになる精神を抑え……努めて冷静に応じた。
「なんだい?」
「あの日の約束、ずっと守ってくれて……ありがとう」
「どうしたの、突然?」
「うん……。
そういえば、ちゃんとお礼言ったことなかったな、って思って」
少女の言う約束が何を意味するかなど、ウェスペルスには考えるまでもない。
そしてそれを守ることは、彼にとって生きる意味そのものであり、礼を言われるようなことではないのだが……。
先と同じく、彼はそれを素直に受け取ることにした。
「……どういたしまして。
でも……まだだよ。これで終わりじゃない。
僕らの約束は、これからも、ずっと続いていくんだから――」
「――うん。そうだね……」
ウェスペルスの一言に、ゆっくりと、力強く頷く春咲姫。
その凛々しくも小さな姿に、彼は……。
西の空に輝く、自らと同じ名を持つ星に目を向け――その決意を願いと掛けた。
今こそ、人が真の落日を迎えぬよう……。
夜明けまでを照らす、明星となれるように――と。
* * *
「……さて、いよいよ――と、言ったところじゃが」
碩賢の執務室は採光用の窓がないため、時間を確認するには時計を見るしかない。
それゆえ身に付いた習性として、半ば無意識に、近くのモニターの隅に浮かぶ数字を一瞥した碩賢は……。
小さなテーブルを挟んで向かい側に座る客に、そう声をかけた。
天咲茎全体が、緊張と興奮に包まれている中――。
そんなこととはまるで無縁だとばかりに、落ち着き払ってコーヒーを啜っていたグレンは「そうですか」と応じ、カップを置く。
「しかし、大した肝っ玉よな……お前さんは」
「まあ……生きるだの死ぬだのといった状況には、さすがに慣れてますんでね」
言って、グレンは首と肩を回しつつ立ち上がる。
「こう言っては何じゃが……。
もしものときを考えて、ルイーザに連絡の一つもしたのか?」
「――娘に任せましたよ。
今さら俺なんかが変に気遣うような連絡入れたりしたら……それこそ、気味悪がられるだけでしょう?」
そんなことを言いながら、グレンはさも楽しげに快活に笑った。
「それに――。
春咲姫の嬢ちゃんも抗う意志を固めた以上、大人しく死ぬ気はさらさらありませんしね」
「……そうか。まあ、そうじゃな」
グレンに釣られるように、碩賢も頬を緩める。
「しかし……
――春咲姫も戦うと決めた以上……俺たち庭都の住民のことを差し置いても、やはり根底にあるのは『死にたい』より、『生きたい』という想いのはずだ。
なのにどうして、永朽花は――カインは、世に現れたんですかね」
「……さて、な」
碩賢は、小さく首を傾げた。
「ワシとて、1000年を生きて様々な知識を得、様々な研究をしてきたが……。
所詮は人間、森羅万象すべてを把握したなどとは到底言えんのだ。
永朽花の出現――そこに、我々の理解を超えた何らかの超常的な作用がある可能性とて、否定は出来ん。
ただ――」
「ただ……何です?」
グレンが促すと……。
碩賢は、言葉を噛み潰そうとするかのように、何度か唇だけを動かして――ようやく、それを形にした。
「――もしかすると、じゃ。
死を願うのは――その意志があるのは。
あの子個人、そして、
我ら、今を生きる――生きているつもりの人類、そのものなのかも知れぬな」
「……人類?」
「人としての個の意識も本能も、基本的には死を忌避し生を渇望する。
じゃが……個体では及びもつかぬ、種としての、深層的な総意はどうなのだろうな?
あるいはそれが、歴史の閉塞を悟り、終幕を自覚しているのなら……。
それこそが真に、審判者たるカインと双子を、世に遣わした根源なのではないか――。
……そんな風にも思うのじゃよ」
「人類そのものが……ですか」
そう繰り返して……。
碩賢も意外なほどにあっさり、ふむ、と納得するグレン。
「……意外じゃな。
これから戦いに赴く人間に何を言う――と、渋面を作ると思ったが」
「いえ……もしも、碩賢のおっしゃる通りなら……ですよ?
万一のときには誰も、春咲姫一人のせいだと、責任を押し付けることが出来ないわけじゃないですか?
――それはいいことだ、と思いましてね」
軽々しい調子ながら……しかし真剣でもあるグレンが述べた意見。
それに、碩賢も髭をさするように顎に手を遣りつつ、頷いた。
「……なるほど。そうきたか」
「もちろん、あくまで万が一の話です。
そうならないよう気張って、やるだけのことはやりますよ」
言って、グレンはふと、カップにコーヒーが残っていることに気付いたのだろう。
ぐいと一息に飲み干した。
「もてなしが、繊細さの欠片もない大雑把な茶ですまんかったな。
サラにでも頼めれば良かったのじゃが」
「なに、これぐらい適当で大味な方がいいんですよ。
サラなんて細かいことばっかりで、男の茶の味ってモンが分かってない。
……まったく、誰に似たんだか」
どこか子供染みた仕草で肩を竦めて、グレンはカップを置く。
「――ご馳走様でした。
それじゃ、一仕事してきますよ」
「……うむ。気を付けてな」
今日という日が特別な日であることは、お互い充分承知の上で。
しかし何ら特別でない、普段通りの挨拶を交わし――。
そうして、二人は別れた。