――すっかり
彼女は黙って成り行きに任せるのを良しとせず、自室を飛び出したのだ。
もちろん彼女とて、自分が何かを出来るなどとは思っていない。
ただせめて、起こっていることを見届けたかった。
それが、人類そのものの行く末を決めるというなら、なおさらに。
途中、カインに倒された守備隊を見かけるたびに、言いようのない焦りを覚えながら、彼女が必死に足を動かして目指した場所――それは、1階層の中央広間。
――彼女の父が、守っているはずの場所だった。
「……お父さん……っ!」
そこに、父は――いた。
血に塗れた姿で、柱に寄りかかり……身じろぎ一つすることなく。
……当然と言えば当然のことだ。
ここより上階の守備隊が倒されているのだから、逃げたりしない限り、父の身が無事であるはずもない。
そして……父がそうした人物でないことは、娘としてよく分かっていた。
だから、目の前の光景は充分に予想出来たはずなのに……。
彼女は我を忘れて駆け寄り、父の身体に縋り付いていた。
……死を正しく理解していないからか、あるいは、理解しているからこそなのか――。
なぜか彼女は、哀しい、という感情が湧かなかった。
心は騒いでいるのに、それが感情に結びつかない。
ヨシュアの訃報を聞いたときの衝撃を思い出し、どうして――と自問する彼女は、突如響いた轟音に、はっと顔を上げる。
――それは爆発音だった。
それも……ほど近い場所からの。
* * *
天咲茎の全体図と、各所のカメラの映像とを見比べながら、ノアは端末を操作していく。
カインが迷いなく最短距離で春咲姫の下へ辿り着けるように――。
防災用のシャッター、ドアやゲートの電子ロックなどを遠隔操作して、ルートを限定。
さらには、極力余計な戦闘を避けるため、守備隊の増援を遮る――。
それが、彼なりのサポートだった。
「……あともうちょっとだ……!
ルートさえ出来てしまえば、あとは……!」
ノアは手を動かしながら、ちらりとモニターの一角に目をやる。
そこには少し前まで、ここ、データルーム前の映像が流れていたが……。
詰めかけてきていたライラたちによってカメラが破壊されたらしく、今では不気味に沈黙するばかりだ。
ただ、どんな手段であれ、ライラたちがドアを開いてなだれ込む気でいるのは間違いない。
そして、それを許せば――逃げ場のない自分たちが窮地に立たされることも。
しかし、それを理解してなお――。
ノアは、自分たちの身を守る手段を講じるより、カインのサポートを優先していた。
それこそが……まさしく、彼らの覚悟だったからだ。
あともう少し――!
そんなノアの呟きが、刹那――耳を
「――――ッ!!」
何事かと振り返った二人は……。
分厚いドアが、無残にひしゃげて転がっているのを見つけた。
そして、さらにその向こう――。
漂う薄煙の中、ぽっかり口を開いた空間に仁王立ちする……人影の存在を。
「さんざん、手を焼かせてくれましたが――。
あなたたちの負けです……ノア、ナビア」
威圧感とともに、ゆっくりと姿を現したのはライラだった。
合わせて彼女の部下が展開し、入り口を固める。
――ノアたちを、袋のネズミとするために。
「――俺たちの負け? それは違うよ、ライラ」
言って、ライラにも見えるようにしながら……。
ノアはわざと大袈裟に、1つのキーを叩いた。
「勝ったのは俺たちだ。
これで――カインが春咲姫の下へ向かうためのルートは、完全に確立された。
俺たちがどうなろうと……。
もう
……ライラは一瞬、眉をひそめる。
その間に、ノアはベルトから拳銃を抜くと――。
ナビアを守るように、構えながら一歩前に進み出た。
「……それで――私をどうするつもりです?
まさか、撃つとでも?」
銃口を向けられても、ライラは余裕綽々と微笑み……。
やってみろと言わんばかりに、両腕を広げて見せた。
「アンタが、俺たちを殺そうっていうつもりならな……!」
一方ノアは、緊張感から声が震えたりしないよう必死に平静を保ちつつ、言い放つ。
対するライラの返答は、いかにも簡潔で――そして、ひたすらに冷徹だった。
「ええ、殺しますよ――もちろん」
……これまで数え切れないほどの命を殺めた、本物の殺人者の殺気がノアを襲う。
実際に気温が下がったのではないかと錯覚するほどのその凄まじさにあてられ、ノアは思わずたじろいだ。
「それで……撃てますか、私が?
ほら……震えていますよ?
それで――そんなことで、本当に撃てるのですか?」
ノアは必死に銃を構え続けるが、その腕も、そして足も――いや、全身が。
ライラの言葉通りに、震えていた。
――その根源は、人を殺めるという行為への恐れだ。
覚悟を決めていたはずの行為も、いざそのときを前にすると、最後の踏ん切りを付けきれずにいたのだ。
だが――それも、今この瞬間までだった。
「……撃てないでしょう? ええ、撃てるはずがありません。
ロクに死を知りもしないあなたが、人を撃つことなど出来るはずがない。
――それだけの覚悟もないのだから」
「確かに……ずっと人の死に関わってきたアンタに比べれば、俺なんて……。
一回死にかけたぐらいでビビっちまう、臆病で何も知らない未熟者なんだろうさ。
――でもな……!」
ノアは震えを噛み殺さんばかりに歯を食いしばり――。
下がりかけていた銃口を、改めて力強く引き上げる。
「俺にだって、護らなきゃならないものがある。
そのための覚悟なら――――ある!」
今こそ――と、引き金を引き絞るノア。
しかし――。
それよりも、ライラの動きが一瞬早かった。
袖口から出した小型ナイフを、手首のスナップのみの最小の動作で投げつける。
――空を裂いて響いたのは――。
銃声ではなく、澄み渡った金属音だった。
ライラのナイフによってノアの手から弾き出され、宙を舞った拳銃は……。
そのまま、彼の背後に転がり落ちる。
「……前言は撤回しましょう、ノア。
確かに――あなたには覚悟があった。
でも……残念ながら、それだけです」
ライラは悠然と、ベルトから別の投げナイフを抜く。
「あなたは結局、
そして、護るべき者も危険に曝しただけ。
終わりです――ノア。
せめて今度こそ、苦しまないように殺してあげましょう。
眠りなさい、安らかに――」
優雅とすら言える動きで……ライラは、ノアの額に狙いを付けてナイフを振りかぶる。
思わず、目を瞑りそうになるノア。
――その瞬間。
来るべき結果に向けて、時が凍り付いたかのようだった空間に――。
轟く銃声が、割って入った。
「……え……?」
信じられない、とばかりに大きく目を見開き――。
仰け反ったライラが、そのまま、ゆっくりと……仰向けに倒れる。
その額には――血の花が、大輪を咲かせていた。
一瞬、何が起こったのかと、あ然とするノアだったが……。
すぐに答えに思い至り、弾かれたように振り返る。
「ハァーッ、ハァーッ……!」
……そこには――。
銃口から、未だ硝煙を立ち上らせる拳銃を両手でしっかと握ったまま……。
小さな肩を上下させて激しく息をつく――信じられないほどに険しい顔をした、ナビアがいた。
「あたしだって……あたしだって、お兄ちゃんに護られるばっかりじゃない……!
これ以上お兄ちゃんに、痛い思いもつらい思いもさせたりしない……ッ!!」
「……ナビア、お前……」
予想外の事態に、ライラの部下たちの間にも動揺が広がる。
ライラの様子から、改めて、ヨシュアの死を想起した者もいただろう。
しかし――。
カインであればともかく、さすがに相手は子供二人。
それも、武器が拳銃一丁となれば……このまま手を
やがて彼らは、距離を詰めようと慎重に動き始める。
すると、ナビアは素速く反応し――。
ノアの前に飛び出て、銃を構え直した。
「――近寄るなぁッ!!」
華奢な少女のものとは思えない鋭い一喝に――。
ライラの部下は思わず、ビクリとその動きを止める。
「お兄ちゃんに危害を加えるつもりなら……!
許さない――絶対に、許さない……ッ!」
さながら、追い詰められた手負いの獣のごとく――。
ナビアは敵意を剥き出しに、銃の狙いをライラの部下たちの間で彷徨わせた。
そのあまりの気迫に、さしもの
あるいは――むしろ、少女の鬼気に恐怖を感じたがゆえか。
足を止めるのも僅か、彼らは速やかに行動を再開する。
しかし、その矢先――。
今度は別の声が、彼らを押し止めた。
「――お待ち下さい」
優しげながら、凛とした響きのあるその声に――。
隊員たちは、慌てて戸口を振り返る。
そこにいたのは――毅然とした佇まいのサラだった。
「出過ぎたことを、と思われるかも知れませんが……。
今、皆様が優先すべきは……その子たちを相手にすることではないのではありませんか?」
サラは春咲姫付きの女官長という地位にあり、天咲茎の中では名の知れた人物だが……。
当然、
つまりは、隊員たちに、彼女の言葉に耳を貸す理由などないはずだった。
しかし――その一言一句の内に、彼女の父グレンの覇気を垣間見たのか。
彼らは、サラを無視出来ずにいた。
「まだ皆様ご理解いただけていないようですので、繰り返しますが……。
ここを取り戻そうとも、その間に春咲姫がお倒れになっては本末転倒というもの。
――違いますか?」
隊員たちを見回し、物静かだが有無を言わせぬ調子でサラは告げる。
……隊員たちも、今となってはこの場で兄妹を排除することにさして意味がないことは理解しているのだろう。
迷うように一度、倒れたライラをちらりと見た後――。
彼らは、サラの意見を受け容れることを決める。
そしてそうと決まれば……彼らが場を立ち去るのは早かった。
「……助かった……の?」
隊員たちが完全にその姿を消すと……。
ナビアは、さっきまでの気迫が嘘のように、呆然と銃を下ろした。
その無骨な金属の固まりを、華奢な手からそっと取り上げ……ノアは頷く。
「ああ……そうだ。
ありがとう、ナビア。お前のおかげだよ」
……兄のその一言に、緊張の糸が切れたのだろう。
すとんと力なく座り込んだナビアは……。
激情の反動からか、幼子のように、ぼろぼろと涙をこぼして嗚咽を漏らし始めた。
そんな妹を、兄は何を言うでもなく、ただただしっかりと抱きしめてやる。
――サラは、その兄妹の姿をしばらく見守っていたが……。
やがて、おもむろにきびすを返した。
それに気付いたノアが、慌てて一言呼び止める。
「――サラ!
その……ありがとう、助けてくれて」
「……私には……。
不老不死を否定するという、あなたたちの考えが理解出来ません。
共感も出来ません。
だから……私が助けたくて助けたわけじゃない。
ただ――」
戸口で立ち止まるも、サラは決して振り返ろうとはしなかった。
「…………父なら。
あの人なら――きっと、こうしたと思うから。
ただ……それだけのことです」
それでもと、もう一度繰り返されるノアの礼の言葉を背に、その場から立ち去るサラは――。
いつしか自分の頬に一筋、涙が伝い落ちているのに気が付く。
――ああ、そうか……。
父ならばと、その想いを半ば無意識に代行し――。
そうして彼女はようやく、本当の意味で理解したのだった。
……止めどなく、あふれ始めた涙とともに。
――お父さんは、もう……いないんだ……。